国民国家
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この過程で、ビスマルクはバイエルン王国ルートヴィヒ2世を買収している[6]。このように強引な形で完成した「国民国家・ドイツ」は、オーストリアに1,000万人を越えるドイツ人を残す一方、普墺・普仏戦争によって獲得した南部シュレースヴィヒ(英語版) (旧シュレースヴィヒ公国領)やエルザス=ロートリンゲン(旧フランス領)などには「非ドイツ人」を多数かかえる国家となった。

歪な形で成立した「国民国家」における未解決の諸問題は、新たな問題の火種となった。エルザス=ロートリンゲンをめぐってはフランスとの対立が繰り返され、第一次世界大戦後に顕在化した旧オーストリア領のドイツ人問題[注釈 4]アドルフ・ヒトラー独墺合邦及びズデーテン併合の野望を抱かせた[注釈 5]。「非ドイツ人」問題は、周辺諸国との国境問題や国内での民族問題につながったが、その最たるものがナチス・ドイツ(ヒトラー政権)によるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)である。

一方、第一次大戦後もドイツ領にとどまったシレジア(シュレージエン)では、ドイツ系住民によるポーランド系住民の迫害が起こり、従来、ドイツ帝国への帰属意識の強かったポーランド系住民の間にも民族意識が高まって、シレジアのポーランドポーランド第二共和国)への併合を求めるシレジア蜂起が数回にわたって起こっている。

「国民国家」は、国民の同質性を前提として統合されたが、「国民」という均質で固定された純粋な存在を意識的につくりだしていく一方、他面では雑種的でしかありえない文化言語、そこからはみ出てしまう社会的少数者に対して抑圧的、排他的な現実をつくり出した[1]。この現象は、決してドイツに限った話ではない。「国民国家」の大義は、先住民族少数民族の権利と衝突することが多いのである。20世紀前半は、世界各地において、国民国家に潜在化していた矛盾や隠蔽してきた諸問題が、特に際立って露呈した時代であった[1]
現代「グローバリゼーション」および「リージョナリズム」も参照

第二次世界大戦後には、多国籍企業が多数あらわれ、国民経済の枠組みを超える存在となっている。また、東南アジア諸国連合 (ASEAN) やヨーロッパ連合 (EU) や南米諸国連合 (UNASUR) のような地域連合も結成され、特に冷戦後にはその動きが活発化するなど、「国民国家」の枠組みが問われる時代になっている。しかしながら、「国民国家」の問題は決して過去の問題ではない。

現代のドイツ連邦共和国基本法によれば、「ドイツ人」とは、「ドイツ国籍を有する者」または「ドイツ民族所属性を有する難民ないし被追放者として、あるいはその配偶者ないし直系卑属として、…(略)…ドイツ・帝国の領内に受け入れられていた者」と規定される。この文言のなかの「ドイツ民族所属性を有する」という定義は、ナチ時代の内務省の回状に淵源をもつといわれる。これは、戦後、移住先の東ヨーロッパ諸国などを追われたドイツ系の人びとを受け入れるためにやむを得ない処置でもあったが、ドイツは、現代においても同一言語・同一人種という民族主義的な国籍原理を採用しているのである[注釈 6]1945年から1990年までは「1つの国」であった旧ユーゴスラビア連邦(クロアチア語)

多民族国家であったかつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、その多様性を「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と表現されていた[注釈 7]。しかし、冷戦の終結と東欧社会主義の崩壊は、この国を「ヨーロッパの火薬庫」に引き戻した。

1991年6月、スロベニアクロアチアの両共和国はユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発した。十日間戦争は短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、それまで地域社会で共存していたセルビア人クロアチア人が相互に略奪、虐殺、強姦を繰り返す「憎しみの連鎖」が生まれた。また、1992年3月に発せられたボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、独立に反対するセルビア人と独立を推進するボシュニャク人ムスリム人)が軍事的に衝突、多くは独立に賛成の立場をとるクロアチア人がこれに加わった。これが同年4月よりはじまったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争である。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住が進行していたため、状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化し、その過程で民族浄化が発生した。1995年7月、セルビア人勢力は、国際連合の指定する「安全地帯」であったスレブレニツァに侵攻し、同地のボシュニャク人男性すべてを絶滅の対象とし、8,000人以上を組織的に殺害するスレブレニツァの虐殺が引き起こされた。この虐殺は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷および国際司法裁判所によってジェノサイドと認定された。1996年に起こったコソボ紛争でも1999年にジェノサイド(ラチャクの虐殺)が発生し、国際問題へと発展した。


「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、バスク地方など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにもアイルランド共和軍IRA暫定派)による北アイルランドのイギリスからの分離と全アイルランドの統一を目指す運動があり、ブリテン島内部にもスコットランドの地域分離主義運動がある。
現在

第二次世界大戦以降、旧列強植民地が相次いで独立し、また、その後の冷戦の崩壊による急速なグローバル化のなかで、「国民国家」の批判的な問い直しが進行している[1]社会科学や文化研究の領域においては、どのような文化装置ないし政治的装置によって「国民」という均質的な「想像の共同体」が現出したのか、また、「国民」は歴史的につくられてきた存在にほかならないのに、どうして言語や民族によって一定の過去や伝統、文化を保持する機構として自明視されたのか、さらに、「国民」の形成が、レイシズム(人種主義)や性差別、クセノフォビア(外国人嫌悪あるいは外国人恐怖)、階級などといった社会的な差別構造をともなうのは何故なのかなどの問題について分析作業が進められている[1]

1983年には、アメリカ合衆国の政治学者ベネディクト・アンダーソンによって、このような国民国家論の先がけとなる『想像の共同体』が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した「世俗語革命」による近代小説の成立、そして「出版資本主義」によって書籍が流通することによって「国家語」の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、「公定ナショナリズム」の後押しによって「国民」という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された[1]。書名の「想像の共同体」とは、共同体のメンバーは「おそらく互いを知ることができない」ところに由来している。パリで生まれてプラハで育ったアーネスト・ゲルナー(1977年)

同じ1983年には、イギリスの社会学者でユダヤ系のアーネスト・ゲルナーが『民族とナショナリズム』を著し、産業社会の勃興と国民形成の関連性を指摘した。そこでは、ナショナリズムは「政治的単位と民族的・文化的単位の一致を求める一つの政治的原理」であると論じ、「産業化」および産業社会の要請に応える高度な「識字能力」の一般化、また、巨大な社会的費用をかけた教育システムの整備を実行に移せるのは畢竟、国家でしかありえないとして近代ナショナリズムの起源を説明した[1]


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