国民国家
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多民族国家であったかつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国は、その多様性を「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの国家」と表現されていた[注釈 7]。しかし、冷戦の終結と東欧社会主義の崩壊は、この国を「ヨーロッパの火薬庫」に引き戻した。

1991年6月、スロベニアクロアチアの両共和国はユーゴスラビア連邦からの独立を宣言し、セルビアが主導するユーゴスラビア連邦軍とスロベニアとの間に十日間戦争、クロアチアとの間にクロアチア紛争が勃発した。十日間戦争は短期間で終結したものの、クロアチア紛争は長期化し、それまで地域社会で共存していたセルビア人クロアチア人が相互に略奪、虐殺、強姦を繰り返す「憎しみの連鎖」が生まれた。また、1992年3月に発せられたボスニア・ヘルツェゴビナの独立宣言をきっかけに、独立に反対するセルビア人と独立を推進するボシュニャク人ムスリム人)が軍事的に衝突、多くは独立に賛成の立場をとるクロアチア人がこれに加わった。これが同年4月よりはじまったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争である。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア人・クロアチア人・ボシュニャク人の混住が進行していたため、状況はさらに深刻で、セルビア、クロアチア両国が介入したこともあって戦闘は泥沼化し、その過程で民族浄化が発生した。1995年7月、セルビア人勢力は、国際連合の指定する「安全地帯」であったスレブレニツァに侵攻し、同地のボシュニャク人男性すべてを絶滅の対象とし、8,000人以上を組織的に殺害するスレブレニツァの虐殺が引き起こされた。この虐殺は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷および国際司法裁判所によってジェノサイドと認定された。1996年に起こったコソボ紛争でも1999年にジェノサイド(ラチャクの虐殺)が発生し、国際問題へと発展した。


「国民国家」の先進国とされてきたフランスもまた、バスク地方など分離主義運動など多くの火種をかかえており、イギリスにもアイルランド共和軍IRA暫定派)による北アイルランドのイギリスからの分離と全アイルランドの統一を目指す運動があり、ブリテン島内部にもスコットランドの地域分離主義運動がある。
現在

第二次世界大戦以降、旧列強植民地が相次いで独立し、また、その後の冷戦の崩壊による急速なグローバル化のなかで、「国民国家」の批判的な問い直しが進行している[1]社会科学や文化研究の領域においては、どのような文化装置ないし政治的装置によって「国民」という均質的な「想像の共同体」が現出したのか、また、「国民」は歴史的につくられてきた存在にほかならないのに、どうして言語や民族によって一定の過去や伝統、文化を保持する機構として自明視されたのか、さらに、「国民」の形成が、レイシズム(人種主義)や性差別、クセノフォビア(外国人嫌悪あるいは外国人恐怖)、階級などといった社会的な差別構造をともなうのは何故なのかなどの問題について分析作業が進められている[1]

1983年には、アメリカ合衆国の政治学者ベネディクト・アンダーソンによって、このような国民国家論の先がけとなる『想像の共同体』が刊行された。ここでは、近代社会への移行期に興起した「世俗語革命」による近代小説の成立、そして「出版資本主義」によって書籍が流通することによって「国家語」の成立に寄与したことが指摘された。そして、言語と出版文化の共有を通じ、「公定ナショナリズム」の後押しによって「国民」という集団的なアイデンティティが形成されていく仕組みと社会編成が示された[1]。書名の「想像の共同体」とは、共同体のメンバーは「おそらく互いを知ることができない」ところに由来している。パリで生まれてプラハで育ったアーネスト・ゲルナー(1977年)

同じ1983年には、イギリスの社会学者でユダヤ系のアーネスト・ゲルナーが『民族とナショナリズム』を著し、産業社会の勃興と国民形成の関連性を指摘した。そこでは、ナショナリズムは「政治的単位と民族的・文化的単位の一致を求める一つの政治的原理」であると論じ、「産業化」および産業社会の要請に応える高度な「識字能力」の一般化、また、巨大な社会的費用をかけた教育システムの整備を実行に移せるのは畢竟、国家でしかありえないとして近代ナショナリズムの起源を説明した[1]

1983年にはまた、イギリスの歴史家エリック・ホブズボームの編著による『創られた伝統』が刊行されている。これは、「国民国家」を歴史的な観点から考察したもので、「国民」「国家」「民族」の具体的・実定的なイメージを象徴する様々な伝統もまた、実は近代国家形成期に創出されたものにほかならないことが示されている[1]

1988年には、アメリカの社会学者イマニュエル・ウォーラーステインとフランスの哲学者エティエンヌ・バリバール世界システム論などの見地から共著『人種・国民・階級』を著している。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ ドイツをはじめとして、オーストリア、スイス、オランダ、ベルギーなど、中央ヨーロッパには現在、連邦制の国家形態を採用する国家が多いが、これは、歴史的にみれば神聖ローマ帝国の遺産といえる。坂井(2003)p.227
^ ドイツの国民経済確立においては、1834年に発足したドイツ関税同盟の果たした役割が大きい。また、マシュー・ペリー来航後の幕末期の日本で攘夷運動が起こり、それが倒幕運動へ転換していったことは、江戸時代の日本では東廻海運西廻海運など国内航路の整備によって、遠隔地商業がさかんとなり、各地域がたがいに経済的に深くむすびついて国民経済の様相を示していたからであるという指摘がある。岡崎・佐藤(2000)
^ ビスマルクは、ドイツ人である以前にプロイセン人であったため、北ドイツ連邦の盟主となったプロイセンが南ドイツを支配することによってかえって統一ドイツのなかに埋没してしまうことを何よりも怖れていた。ハフナー(2006)p.65
^ 第一次大戦でオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、旧帝国のドイツ的部分は新オーストリアとなり、「ドイツ人の国民国家」が2つ並立することになった。また、ボヘミアモラヴィアシレジアでドイツ人が多数を占める地域(ズデーテン地方)はチェコスロバキアに編入され、ドイツ系住民が新オーストリアないしドイツへの編入運動を行っていた。
^ これらはいずれも1938年に実現し、オーストリアとズデーテンはドイツ領となった。
^ ワルター・ラカーは、戦後のドイツ人はユダヤ人の大量虐殺については多少なりとも良心の呵責を感じ、償いに応じようという気があったとしても、ロシアやポーランド、チェコスロバキアに対しては罪悪感はなく、むしろ被害感情があったと証言している。これら東欧諸国は、大戦にあっては敵国だったのであり、かれら(スラブ人)は何百万人ものドイツ人を故郷から追放し、略奪し、ときには生命まで奪って十分すぎるくらい報復したではないかというのが、戦後ドイツの論理だったのである。永井(1992)p.27
^ 「7つの国境」はイタリア、オーストリア、ハンガリールーマニアブルガリアギリシアアルバニア。「6つの共和国」はスロベニア、クロアチア、セルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナモンテネグロマケドニア


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