国民国家
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歴史的にみれば、絶対王政によって中央集権体制の整えられた国家が三十年戦争を通じてさらに強力化し、三十年戦争の講和条約であるヴェストファーレン条約(1648年)によって、このとき神聖ローマ帝国(ドイツ)の領域に多数の主権国家が生まれ、またオランダ(北部ネーデルラント)はスペインから国としての独立を果たした[注釈 1]。こうしてそのとき生まれたヨーロッパの国際秩序を「主権国家体制」ないし「ウェストファリア体制」と称する。

こののち、ヨーロッパでは17世紀のイギリス市民革命(清教徒革命名誉革命)、18世紀フランス革命などにみられるように、絶対王政に対する批判として君主に代わって「国民」が主権者の位置につくことによって近代国家が形成された[1]。18世紀から19世紀にかけて、オランダ・イギリスフランスにつづいてヨーロッパの他地域でも市民革命が起こり、また、英仏をモデルとした近代化が進められた[1]。こうして成立した国家が「国民国家」であるとされる。

「国民国家」形成過程においては、国民は一般に、国旗国歌、使用する文字や言語の標準化などの統制を通じて、国民的アイデンティティを形成していく[1]
諸国民の春1848年のベルリン三月革命詳細は「1848年革命」を参照

ヨーロッパにおいては、1848年革命(「諸国民の春」)ののち、つぎつぎと「国民国家」が成立した。ドイツ帝国イタリア王国は統一運動によって、バルカン半島ではセルビア王国モンテネグロ公国ルーマニア王国ブルガリア公国などはオスマン帝国からの独立によって、それぞれ生まれた国民国家であった。近代の国家システムのなかで、国民は主権者としてのさまざまな権利を有すると同時に、納税兵役教育義務を担うこととなった。国民国家形成はしばしば、当該民族にとって「悲願のできごと」として表現されることが多い。しかし、実際には、国家領域のなかには多様な人びと、複数の集団が存在していることが多いため、さまざまな問題をはらんでおり、歴史的に重大な事件を引き起こす要因ともなってきた(後述「国民国家のはらむ問題」節参照)。
国民的アイデンティティー

国家の住民を、「国民」にまとめあげる際、重要な要素となったのが「民族としてのアイデンティティー」であった。ここでいう民族は、人類学的な民族(エスニック集団)と必ず一致しているわけではない。国家の一員としての帰属意識(国民的アイデンティティ、ナショナル・アイデンティティー)の獲得を促したのが、工業化による富や社会構造の変動、言文一致運動とそれを担った娯楽の発展、マスメディアの誕生、義務教育等々による国語の定着などである。また、多くの場合は時期をほぼ同じくして、歴史が国民に共有されたこと、経済圏が統一されて国民経済が確立したことが、その促進要因として挙げられる[注釈 2]。国民国家は、国家のために税金から命まで差し出す国民を育成し、それまでの嫌々ながらも従う農民の構図に比べて圧倒的に動員能力のある国家を生み出した[2]明治天皇

日本では、明治維新によって、日本列島に大日本帝国という国民国家が成立した。それまで幕藩体制下では民衆はまず直接の統治者であるを国(クニ)として意識していた。それまでは幕府による統一はあっても中央集権は緩やかであり、藩をまたぐ民衆の移動が制限されていたので言葉や文化、政治の違いも大きく、民衆は「日本国民」という意識が稀薄であった。そうした状況を改め、西欧諸国に対抗するべく明治政府一君万民を唱え中央集権化を進めることで地方較差を薄め、「日本国民」としての意識を広めていく必要があった。しかし、西欧的な「国民」という概念は当時の日本人にとって抽象的であり、民衆に浸透させることが困難であると危惧した明治政府は、当時の民衆にもわかりやすいように、万民が等しく天皇陛下の臣(臣民)であるというように広めた。

宮台真司は、「幕藩体制下では『クニ』とは藩のことで、庶民レベルには『日本』という概念がなかった。だから、日本統合の象徴である『天皇』という“共通の父”により、『一君万民』のフレームによってクニとクニの対立を忘却させ、一つの国民国家として融和させた」と述べている[3]。また、宮崎哲弥は「マスメディアは国民国家の要であり、特にテレビは、日々刻々『国家なる幻想』を産出している装置である」と指摘している[4]
問題
1861年イタリア統一詳細は「イタリア統一運動」および「未回収のイタリア」を参照統一されたイタリアの初代国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

「諸国民の春」ののちイタリアでは、イタリア統一運動が活発化し、1861年にはイタリア王国が成立した。しかし、そののちも、オーストリア帝国領内には「イタリア語の発音が聞こえる地域」がのこった。南ティロル地方トレンティーノ地方トリエステイストリア地方フィウーメ(リエカ)、ダルマツィア地方など旧ヴェネツィア共和国領にあたる地域であり、これらの地域は「未回収のイタリア」と称された。統一イタリア王国は普墺戦争の際、プロイセン王国軍と同盟してオーストリアと戦い、ヴェネツィアを回収したが、戦争は7週間で終結したため、ヴェネツィア以遠のイタリア人居住地域の「奪回」を果たすことができなかったのである。「未回収のイタリア」(ブルガリア語)

「未回収のイタリア」の存在は、その後のイタリアを左右しつづけた。イタリアは、第一次世界大戦に際し、当初三国同盟に基づいて同盟国側に立ったが、「未回収のイタリア」帰属問題をめぐりオーストリア・ハンガリー帝国と対立、開戦に際しては中立を宣言し、最終的には、1915年にイギリス・フランスなど連合国側について参戦した。しかし、こうして第一次大戦の戦勝国となりながらも、期待していたフィウーメなどの領地が得られなかったことから、戦後のヴェルサイユ体制に強い不満をもつ人も少なくなかった。「未回収のイタリア」問題は、1920年代から30年代にかけてのファシスト党の台頭の遠因のひとつとなったのである。
1871年ドイツ統一詳細は「ドイツ統一」を参照

19世紀後半のドイツ統一は、一般的には、プロイセン王国の宰相オットー・フォン・ビスマルクによって進められ、1871年のプロイセンを中心とするドイツ帝国ドイツ国)という国民国家の成立で達成されたと理解される。しかし、実際のドイツ帝国は、領域内の全住民をひとつのまとまった構成員として統合する国家という上述の定義からは程遠いものであった[5]血縁的・言語的「ドイツ人」の居住地域の変遷(700年から19世紀まで)


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