このページのノートに、このページに関する提案があります。(2024年3月)
提案の要約:日本国憲法において国民主権の明記以前から国民主権が根本原理として存在し、明記によって憲法改正によっても変更できないことが確定したと冒頭に書くこと。
国民主権(こくみんしゅけん、英語: popular sovereignty)は、主権者は国民であるという思想であり、国民が政治権力の責任主体であり、政府は国民の負託により運営される機関であるとする思想。 ここで言う「主権」とは、国政、即ち国の政治のあり方を最終的に決定することを意味する。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}これは権威的でも、権力的でもある。最高権威にして最終権力というのが通説である[要出典]。 「国民主権」は、歴史的で多義的な概念であり、その時代、論者によって内容が異なる概念である。「主権在民」または「人民主権」ともいう。 「人民主権ないし国民主権」は、17?18世紀にかけて、社会契約説の概念を背景に、ロック、ルソーによって発展させられた概念である。「人民」と「国民」は、peuple プープルとnation ナシオン(フランス語の表記。英語ではpeopleとnation)という対立的な概念として図式化されることもある また「国民主権ないし人民主権」は、フランス、ドイツのほか、アメリカ合衆国[注 1]、日本(日本国憲法は「国民主権」を永久不変の根本原理として[要出典]明記している) 他、多くの国家の現行憲法で採用されている。ただし、その内容は必ずしも同一ではない。 これらの国に対し、英国では「国会主権」がとられているが政治的な主権は市民が有するとされている。 「人民主権」の原型は、古代ギリシアの民主政(democracy)に求めることができる。democracyは、古典ギリシア語のデモス(demos、人民)とクラティア(kratia、権力・支配)をあわせたデモクラティア(democratia)が語源であり、直訳すれば「民権」ないし「民衆支配」である。中世的な身分社会を前提とした古典的な意味での民権論は、アーブロース宣言にまで遡ることができる。 他方、「主権」の概念の原型は、ローマ法の法学者ウルピアヌスの「元首は法に拘束されず」(princeps legibus solutus est)、「元首の意思は法律としての効力を有する」(Quod principi placuit、legis habet vigorem)に遡ることができるが、ジャン・ボーダンによって近代的な意味を与えられて確立された概念とされている。 主権概念と結びついた近代的な意味での「人民主権ないし国民主権」の概念は、17 - 18世紀にかけて、社会契約説の概念を背景に、ロック、ルソーによって発展させられた概念である。ロックとルソーの人民主権は相当に内容が異なり、ロック流の人民主権論は、アメリカ合衆国憲法に、ルソー流の人民主権論は、フランス革命に影響を与えたとされているが、当時は、民主政の概念とは区別され、必ずしも民主政と結びつく概念ではなく、逆に、君主政、貴族政とも結びつき得る概念であるとされていた。 1776年のバージニア憲法が人民主権を採用した初めての憲法とされ、他の州の憲法や、アメリカ合衆国憲法もこれを引き継いだ[注 2]。 フランス革命の際、エマニュエル=ジョゼフ・シエイエスは、プープル主権論(souverainete du peuple)を採用しつつも直接民主制を肯定するルソーのプープル主権論を批判して、主権と国家の統治組織を創設する憲法制定権力(制憲権)を区別した上で、主権は人民のみが有し、制憲権を有するのは主権者のみであるが、制憲権によって創設された組織上の権力を行使する者は必ずしも人民ではないとして、代表民主制を直接民主制よりも優れた制度であるとした[1]。1791年憲法は、シェイエスの理論に忠実に、代表制と制限選挙制を採用したが、主権はナシオンに属するとした。このようにナシオン主権論(souverainete nationale)は歴史的には君主主権とプープル主権論の双方を否定するために、発展した概念であった。ナシオン主権論とプープル主権論の二者の図式的に対立させたのは、第三共和制下におけるレイモン・カレ・ド・マルベールであり、初めてナシオンとプープルの違いを意識的に区別して、プープル主権を体現したのが1793年憲法であるとした。ナシオン主権論によれば、主権者たる「国民」の意思は抽象的にしか存在しえず、これは自由委任
国民主権とは
歴史
後進資本主義国であったドイツでは、1848年になって、主権者である人民が皇帝を選挙によって選ぶという人民主権に基づく自由主義的なフランクフルト憲法が制定されたが、選挙によって選ばれたフリードリヒ・ヴィルヘルム4世が皇帝になることを拒否し、1850年、自らが王権神授説・君主主権に基づく欽定憲法であるプロイセン憲法を制定した。その後、プロイセンは、1871年、他の君主制国と合して一つの連邦を作り、ビスマルク憲法を制定して君主主権をとっていたが、1919年制定されたワイマール憲法で「国民主権」がとられることになった。
同じく日本では、1874年から始まる自由民権運動が広がりを見せ主権在民が唱えられたことがあるが、明治十四年の政変によって、1889年、プロイセン憲法を参考にした明治憲法を制定し主権という記述は取り入れられなかった。その後、主権の所在問題を回避する民本主義や国家権力の源泉としての主権を国家に帰属させた天皇機関説が唱えられ、そのことを誤解或いは批判した天皇機関説事件が起きたが、1946年に公布された日本国憲法によって「国民主権」がとられることになった。 アメリカ合衆国憲法自体には、国民主権という文言はない。しかし、州憲法に国民が権力の源泉である旨が記載されており、あるいは合衆国最高裁判所の判決によってしばしば言及されており、非明示的に認識されている。以下の記述は合衆国政府[2]の解説による。 米国は民主主義の国家として分類されることが多いが、より正確に言えば、立憲連邦共和国と定義することができる。これはどのような意味だろうか。「立憲」とは、米国の政府が、国の最高法規である憲法に基づいていることを指す。憲法は、連邦政府と州政府の機構の枠組みを提供するだけでなく、政府の権限に大幅な制限を課している。「連邦」とは、中央の政府と50 州の政府から成ることを意味する。「共和国」は、主権は国民が持つが、選出された代表者がその権力を行使する政体である。 「国民自身以外に、社会の最高権力の安全な預託先を私は知らない」?トマス・ジェファーソン、1820年 合衆国最高裁における初期の判決Chisholm v. Georgia, 事件においてジョン・ジェイ最高裁長官は、以下のように述べた。[3] 国または国家の主権とは、統治する権利である。国民または国家の主権とは、一人の人または、住んでいる人たちである。欧州においては、主権は国王に与えられている。ここ(合衆国)では、人民(the people)に存する。欧州では、主権は実際に政府を運営させている。ここでは、決して単一の人またはものに存在しない。我々の州知事たちは、人民の代理人であるし、人民と州知事たちとの関係は、国王と摂政の関係に代わるものでしかない。
アメリカの国民主権