国歌
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大韓民国朝鮮民主主義人民共和国は、1991年千葉県幕張メッセで開催された第41回世界卓球選手権以降、たびたび統一チームを組んで国際大会に参加しているが、この場合には民族音楽である「アリラン」が国歌の代わりに用いられるのが慣例となっている[4][5]
国歌の改変・改訂

政体および政権の変更、または社会思想の変化にともない、国歌が改変、改訂、変更されることがある。

フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」は1792年ストラスブール市で工兵大尉ルージェ・ド・リールによって「ライン軍歌」として作詞作曲され、それをマルセイユからの義勇兵パリで広めたものである。1795年に国歌として制定されたが、ナポレオン・ボナパルトの第一帝政のときに「門出の歌」に変更され、1814年復古王政によって演奏中止となった。「ラ・マルセイエーズ」は七月革命後に復活したが、1852年から1870年のあいだは公共の場での歌唱が禁止された。1879年に国歌であることを再確認されたが、その交戦的で血生臭い歌詞のため、たびたび歌詞改変運動が起こっている。

ドイツの国歌「ドイツの歌」はヴァイマル共和国時代に正式な国歌となったが、1番の歌詞に拡大主義的な内容を含んでいたため、第二次世界大戦で敗北した後、一時演奏禁止となった。1949年のドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)成立時に、統一と権利と自由を謳う3番のみを公式なものとして復活させ、東西統一後のドイツでもこれが受け継がれている。

中華人民共和国の「義勇軍進行曲」は、1949年の建国時に国歌として採用された。その後、1966年から始まった文化大革命の時期に、作詞者の田漢が「漢奸」とされてからは歌われる機会が減少し、1975年に田漢が中国共産党籍を永久剥奪されて以降は曲のみが公式に演奏されるようになった。文革終結直後の1978年には毛沢東思想を賛美する歌詞が新たに作られ、元の曲に合わせて歌唱されるようになった。その後1982年12月の第五期全国人民代表大会第五回会議で、田漢の作詞による元の歌詞に戻された。

トルクメニスタンの「独立、中立、トルクメニスタンの国歌」は1997年に国歌として採用された。当時の同国は独裁者として知られたサパルムラト・ニヤゾフ(テュルクメンバシュ)大統領の統治下であり、国歌の歌い出しも「Turkmenba?y? guran beyik binasy(テュルクメンバシュの作った偉大な建造物)」と、ニヤゾフ個人を称えるものであった。2006年にニヤゾフが死去した後、後任の大統領であるグルバングル・ベルディムハメドフにより、脱ニヤゾフ政策の一環として2008年に歌詞の変更がなされ、当該箇所は「Halky? guran baky beyik binasy(人々の作った永遠に偉大な建造物)」と改められた。

その他、カナダ国歌の「True patriot love in all thy sons command(汝の息子たちすべての中に流れる真の愛国心)」という歌詞は男女同権の観点から長年問題視されており、2018年に「in all thy sons command(汝の息子たちすべての中に)」が「in all of us command(私たちすべての中に)」に改められた。オーストラリア国歌に存在していた「For we are young and free(我らは若くて自由)」という歌詞は、イギリスによる植民地化以前からオーストラリア大陸に居住していたアボリジニに配慮する形で、2021年に「For we are one and free(我らは一つで自由)」と改定された。
国歌に準ずる曲

国歌に次いでその国を象徴するような歌(曲)が「第二の国歌」と呼ばれることがある。ほとんどの場合、法的に定められたものではない。

「第二の国歌」として知られる曲。

イギリス:「希望と栄光の国」「我は汝に誓う、我が祖国よ

アメリカ:「星条旗よ永遠なれ」「アメリカ・ザ・ビューティフル

イタリア:「ナブッコ

ロシア:「祖国の歌」「カチューシャ」「スラブ娘の別れ

オーストリア:「美しく青きドナウ

フィンランド:「フィンランディア

イラン:「Ey Iran

中国:「歌唱祖国


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