国歌
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イギリスのジョン・スタフォード・スミスにより作曲された「天国のアナクレオンへ」のメロディを流用したアメリカ国歌、フィンランド人のフレドリック・パシウスによる作曲のエストニア国歌などが例としてある。作曲が外国人による場合でも作詞は自国民によるケースがほとんどだが、パラグアイ国歌ウルグアイ人のフランシスコ・アクーニャ・デ・フィゲロア(ウルグアイ国歌の作詞者でもある)の作詞、イタリア人のフランチェスコ・カッサーレの作曲によるものであり、作詞作曲の双方が外国人によってなされている点で特異である。
歌詞

自国の自然風土を賛美するもの、国家の安寧を祈願するものは国家の政体を問わず普遍的である。その他、君主国においては君主への賛美、忠誠などを表現したものが多い。フランスおよびその影響を受けたラテンアメリカ、アフリカ諸国では、自由の価値を讃えるものや外敵との抗争を歌ったものが多い。中東諸国においてはイスラム教およびアラーを讃える国歌が一般的である。一方、キリスト教の神に言及する国歌はイギリスおよびその旧植民地諸国に多く、それ以外では少ない。

スペインボスニア・ヘルツェゴビナなどの国においては、主として歴史的・民族的要因により、国歌に公式な歌詞が存在しない(器楽曲)。

公用語が複数ある国家では、国歌の歌詞も各言語のものがすべて正式なものとして認められている場合が多い。例としてスイス国歌は公用語である4つの言語(ドイツ語フランス語イタリア語ロマンシュ語)すべてで歌詞が作られている。一方でシンガポール国歌のように、人口的には少数派の言語であるマレー語での歌唱が義務付けられているものも存在する[2]。複数言語でそれぞれ独立した歌詞が存在するものの、それらを部分的に織り交ぜて歌唱することが通例となっているもの(カナダ国歌ニュージーランド国歌など)、さらには公式の歌詞そのものが複数言語で書かれ、常に多言語で歌われるもの(南アフリカ国歌)もある。
国歌の使用機会

国歌は、国内向けには愛国心の涵養および表現のため、また国外向けには国旗などと同様に、国家の象徴として他国との区別を行うために用いられる。

国旗掲揚式では、国旗の掲揚と降下時に国歌が演奏されることが多い。多くの国では学校教育の一環として国歌の演奏・歌唱が行われるほか、毎日始業時などに国歌斉唱を行う国もある(タンザニアなど)。ほとんどの国営テレビ局ラジオ局は、放送開始前の早朝と放送終了後の夜間に国歌を流している。外交の場では、歓迎式典でホスト国とゲスト国双方の国歌が演奏されることが多い。

国歌斉唱や演奏の際には、国により、またシチュエーションにより、敬礼起立、脱帽など、特定の礼儀作法が求められることがある。

スポーツイベントの試合前にも国歌演奏・歌唱が行われることがある。サッカーラグビーなど、スポーツの主要な国際大会では試合を行う両国の国歌が演奏され、開催国の国歌が後に演奏される。オリンピック世界選手権の表彰式でメダルが授与される際には、金メダルを獲得した選手の国歌が演奏される。アメリカのメジャーリーグベースボール日本のプロ野球をはじめ、国内のチーム同士の対戦の際にも国歌の歌唱が行われる場合がある。

一方で、ある国の国歌が国外で演奏されるかどうかは、その国の置かれている政治的立場、および国際的承認の有無に左右される。例えば、中華民国台湾)は1979年以降、国際オリンピック委員会から独立した国家として認められておらず、チャイニーズタイペイ(中華台北または中国台北)として競技に参加しなければならないため、国歌の代わりに「中華民国国旗歌」が使用される。なお台湾国内では国旗掲揚と国旗降納が行われる前に国歌が歌われ、掲揚および降納中は国旗歌が歌われる。2018年平昌オリンピック2021年に行われた東京オリンピックにおいては、ロシアドーピング問題のために国単位での参加を認められず、個人資格等で出場した選手についても表彰式での国歌演奏が許可されなかった。このため平昌においてはオリンピック賛歌、東京ではピョートル・チャイコフスキーの「ピアノ協奏曲第1番」の一部が国歌の代わりとして利用された[3]大韓民国朝鮮民主主義人民共和国は、1991年千葉県幕張メッセで開催された第41回世界卓球選手権以降、たびたび統一チームを組んで国際大会に参加しているが、この場合には民族音楽である「アリラン」が国歌の代わりに用いられるのが慣例となっている[4][5]
国歌の改変・改訂

政体および政権の変更、または社会思想の変化にともない、国歌が改変、改訂、変更されることがある。

フランスの国歌「ラ・マルセイエーズ」は1792年ストラスブール市で工兵大尉ルージェ・ド・リールによって「ライン軍歌」として作詞作曲され、それをマルセイユからの義勇兵パリで広めたものである。1795年に国歌として制定されたが、ナポレオン・ボナパルトの第一帝政のときに「門出の歌」に変更され、1814年復古王政によって演奏中止となった。「ラ・マルセイエーズ」は七月革命後に復活したが、1852年から1870年のあいだは公共の場での歌唱が禁止された。1879年に国歌であることを再確認されたが、その交戦的で血生臭い歌詞のため、たびたび歌詞改変運動が起こっている。

ドイツの国歌「ドイツの歌」はヴァイマル共和国時代に正式な国歌となったが、1番の歌詞に拡大主義的な内容を含んでいたため、第二次世界大戦で敗北した後、一時演奏禁止となった。1949年のドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)成立時に、統一と権利と自由を謳う3番のみを公式なものとして復活させ、東西統一後のドイツでもこれが受け継がれている。

中華人民共和国の「義勇軍進行曲」は、1949年の建国時に国歌として採用された。その後、1966年から始まった文化大革命の時期に、作詞者の田漢が「漢奸」とされてからは歌われる機会が減少し、1975年に田漢が中国共産党籍を永久剥奪されて以降は曲のみが公式に演奏されるようになった。文革終結直後の1978年には毛沢東思想を賛美する歌詞が新たに作られ、元の曲に合わせて歌唱されるようになった。その後1982年12月の第五期全国人民代表大会第五回会議で、田漢の作詞による元の歌詞に戻された。

トルクメニスタンの「独立、中立、トルクメニスタンの国歌」は1997年に国歌として採用された。当時の同国は独裁者として知られたサパルムラト・ニヤゾフ(テュルクメンバシュ)大統領の統治下であり、国歌の歌い出しも「Turkmenba?y? guran beyik binasy(テュルクメンバシュの作った偉大な建造物)」と、ニヤゾフ個人を称えるものであった。


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