国家社会主義は、国家や政府による重要産業の国有化と統制経済を柱としており、改革を手段とする。従来の社会主義は、協同組合や労働組合などの共同体を基本とするものや、マルクス主義など暫定的な政治権力獲得によるプロレタリア独裁を認めつつ「共産主義社会に達すれば国家は死滅する」とするものが多かったが、ラッサールは普通選挙によって国家や政府が労働者階級の権利や利益を反映して社会主義政策を進めることを主張した。なお、バブーフも国家が管理する共産主義社会を主張したが、ラッサールの方法論は議会制民主主義による改良主義である。
マルクスは1875年の『ゴータ綱領批判』でラッサール主義を批判するも、ラッサール派の全ドイツ労働者同盟はマルクス派(アイゼナハ派)の社会民主労働者党と合同して後のドイツ社会民主党となってドイツの社会主義者に影響を与えた。
ビスマルクの社会政策「en:State Socialism」も参照
ビスマルクの社会保障政策も、国家社会主義と呼ばれることがある。「全ドイツ労働者協会」の会長であったラッサールは、1863年からビスマルクと面談し、普通選挙の導入や生産組合への国家補助を要請した[15]。こうした体制派に対するラッサールの取った姿勢は後々、マルクス主義側(特にコミンテルン以降)から「プチブルジョワ的社会主義」、あるいは「日和見主義的改良主義」などと批判された。
ビスマルクは1871年のドイツ統一後、1878年には社会主義者鎮圧法を制定したが、他方で労働者の社会保障や、教育費の無償化など社会主義的政策を実施した。これらは道徳国家を主張したラッサールの影響とされており[16]、ビスマルクも自分が今まで会った人物の中でラッサールは「最も知的」とまで公然と評価していた[17]。またアドルフ・ワグナーやグスタフ・フォン・シュモラーら講壇社会主義者の台頭することにもなった。ビスマルクは保守であったが、自由主義の進歩党やカトリックなどと対立しており、労働者階級の支持も必要とした。また「強いドイツ」の実現には、階級対立の緩和と民族の団結が必要であった。
ビスマルクは1881年に書いた手紙のなかで、自らの政策を「国家社会主義」 (ドイツ語: Staatssozialismus) と呼んだ[18]。政治学者のバートランド・ラッセルはビスマルクの国家社会主義について「現実には、彼の政策には社会主義よりも国家の方がはるかに多く、国家社会主義という名は大きな誤解を招きやすいのである。」と述べた[19]。ビスマルクの創設した災害保険・健康保険・老齢年金などの社会保障制度は労働者階級の福祉向上に大きく貢献し、その後のドイツの社会政策の基礎となり、欧米や日本など世界各国で導入された[20]。
ソ連型社会主義「社会主義国」および「en:State socialism」も参照
政治経済学者のデービッド・レーンは著作「国家社会主義の興亡」で、ソ連型社会主義国家などを広く「国家社会主義」と呼んだ[8]。
和田春樹は、ソ連の政治社会体制について、「農業の全面的集団化、強行的な工業化、階級闘争としての文化革命を通じて、計画経済化と経済の一元化、党・国家・社会団体の一体化、国家社会の一元化が実現された。ここにおいて人類がこれまでに知ることのない完全に新しい社会システム、国家社会主義体制が完成された。」とし、ソ連の「党と国家と社会団体が一体となった公的主体が政治と経済の全体を一元的に管理する体制」は、「いわゆる全体主義と呼ばれる体制より以上に、全的に一元化されたシステムであった。」と論じた[21]。
ナショナル・ソーシャリズム「ナチズム」および「ファシズム#一覧」も参照
国家社会主義(英語: national socialism、ドイツ語: Nationalsozialismus)は、以下のそれぞれの立場から使用された。 1890年代にフランスの社会主義者のモーリス・バレスは、社会主義にナショナリズムや反ユダヤ主義を結合し、後に「国家社会主義」とも呼ばれている[22]。また、フランスの社会主義者のピエール・ビエトリーは黄色社会主義を掲げ、1903年に「国家社会主義党」 (Parti socialiste national) を結成した[23]。バレスやビエトリーらは、ファシズムやナチズムの先駆とも呼ばれている。 1890年代にオーストリア=ハンガリー帝国からの独立を掲げるチェコの社会主義者とナショナリストによってエドヴァルド・ベネシュ政権の与党となるチェコ国民社会党(?eska strana narodn? socialni)が結成される。後のナチスの党名に影響を与えたともされる[24][25][26]。 イギリスの経済学者アルフレッド・マーシャルは、1907年に、富が公共の用途に供せられるような経済騎士道に基づく国民的社会主義 (National Socialism)を提唱した[27]。 イギリスの社会主義者ヘンリー・ハインドマンは、マルクス主義に傾倒しながらも、愛国的なナショナリズムと社会主義を結合し、1916年に国家社会主義党 (National Socialist Party) を結成した。 1918年のオーストリアとチェコスロバキアのドイツ国家社会主義労働者党 (Deutsche Nationalsozialistische Arbeiterpartei)、1919年のハンガリーのゲンベシュ・ジュラなども「国家社会主義」を掲げた。これらは反ユダヤ主義など、後のナチスとの類似性を持った。 ナチズム
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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