その後、大正・昭和期には、日本でも独自の国家社会主義が発展していった。高畠素之や赤松克麿らがとなえた「国家社会主義」や、北一輝の思想は、一般には「右翼思想」(国家主義)の一種とされるが、一方で社会主義・農本主義の影響を強く受けていた。
大川周明・津久井竜雄・赤松克麿らは、1932年(昭和7年)に日本国家社会主義研究所および日本国家社会主義学盟を設立[35]。同年10月1日『日本社会主義』[注 1]を創刊した。
高畠素之はマルクス主義の研究者から出発して、マルクスの唱える資本主義の崩壊は必然であるが、階級対立が消滅した後も人間のエゴイズムは残るため、国家は消滅するのではなく、国家本来の機能として支配・統制が行われるとする「国家社会主義」を提唱した。
赤松克麿は、従来のマルクス主義的インターナショナルが人類闘争の歴史を「階級的」にのみ認識して、これを「民族的」あるいは「国民的」に捉えないことを指摘した。この主張によれば、国際間には資本家と労働者との「階級的」利害の不一致のみがあって国と国の民族的・国民的利害の不一致は存在しないことになる。また「万国の労働者よ、団結せよ!」という『共産党宣言』のスローガンは、既存の世界に万国の労働者が団結すべき客観的条件が欠如していることから実現不可能であるとも指摘した。いずれの諸国の労働者も国家・国民という立場を離れることはできないのだからナショナルは肯定しなければならず、まずは一国において社会主義を実現する。ナショナルという手順を踏んでインターナショナルを目指すべきと説いた。これが赤松の「国家社会主義」である。その後、赤松は日本主義を提唱した。
北一輝は『国体論及び純正社会主義』で天皇機関説に基づき天皇の神格化を否定し、山路愛山の国家社会主義などを批判した。また『日本改造法案大綱』では、クーデターにより天皇は3年間憲法を停止し戒厳令をしくこと、男子普通選挙の実施、華族制廃止、私有財産の制限などの国家改造と、戦争による広大な帝国の建設を掲げ、後の皇道派にも影響を与えた。北自身は「国家社会主義」という用語を使用していないが、国家主義と社会主義の傾向を併せ持つことや、同時期のナチスとの類似性などから、滝村隆一や芹沢一也や嘉戸一将
などの著作で「国家社会主義」と呼んでいる。