国家元首
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ただ、教皇は任期が定められていない上に本人の意に反する退位が認められておらず、事実上終身の地位である[注 10]。また教皇の地位には特別な権威(聖座)が認められている。そうした点ではバチカン市国の国家元首としてのローマ教皇の地位は大統領制の大統領と同等とはいえず、むしろ選挙君主制のもとでの君主に近い。

チベット1959年以降は亡命政権)の国家元首は、チベット仏教ダライ・ラマ法王であった。ダライ・ラマ法王の地位は世襲でも選挙制でもなく「転生」という特異な方式により継承されていた。1959年のチベット動乱によってダライ・ラマ14世チベット政府(ガンデンポタン)はインドに移って亡命政府を樹立した。1961年、将来の独立チベット国家の体制の指針であるとともに亡命チベット人社会を統治するための自由チベット憲法が制定され、ダライ・ラマは立憲君主制体制の元首と定められた。その後、2011年にダライ・ラマ14世の発議によって亡命チベット人憲章が改訂され、ダライ・ラマは「チベットとチベット人の守護者であり象徴」となり、チベット亡命政府の国家元首の座は亡命政府主席大臣に移譲された。

サモア独立国(1997年7月3日までは西サモア(独立国))の国家元首は、オ・レ・アオ・オ・レ・マーロー(サモア式国家元首)であり、独立前の1960年10月28日の起草によるものであり、1962年1月1日の独立とともに施行された憲法で定められた国家元首の称号である。「アオ」「マーロー」は現地語(サモア語)でそれぞれ「頭(ここでは“長(おさ)”)」「政府/王国」を意味する(詳細はサモア国家元首の「概要」を参照)。

政治的な諸事情によって本来の国家元首を置くことができない場合、それに代わる存在が国家元首となる場合がある。

第一次世界大戦後のハンガリー王国は、本来はハプスブルク家出身のオーストリア大公ヨーゼフ・アウグストを国王とする王国として成立するはずであった。しかしハプスブルク家の国王を戴くことに内外の反発が強かったため、ヨーゼフ・アウグストは国王になることができず、さらにオーストリア=ハンガリー帝国最後の皇帝であったカール1世(カーロイ4世)のハンガリー国王としての復辟運動とその失敗もあり、国王空位の王国となった。国王に代わる国家元首として摂政が置かれ、建国から1944年まで海軍提督ホルティ・ミクローシュが摂政を務めた。

スペイン内戦後のスペインでは、内戦に勝利したフランシスコ・フランコ将軍が独裁権を握り、国家元首に就任した。国家元首としてのフランコはカウディーリョ(Caudillo、日本語では総統と訳される)の称号を用いた。なお、軍総司令官としてのフランコの称号はヘネラリッシモ(Generalisimo、総帥)である。一方、フランコは自分の後継体制においては王制復古してスペインを王国に戻すべきだと考えていた。1947年にフランコ総統は「国家首長継承法」を制定し、スペインを「王国」とすること、フランコが王国の「摂政」として終身の国家元首となること、フランコに後継の国王の指名権が付与されることなどを定めた。

満洲国は1932年の建国の際、愛新覚羅溥儀が国家元首となった[16]の最後の皇帝であった溥儀は、満洲国でも皇帝となることを熱望していたが、同国の実質上の支配者であった日本の関東軍は帝政を採ることによる新国家のイメージの低下を懸念してそれを許さなかったため、建国当初の満洲国の国家元首の称号は執政という曖昧なもの[独自研究?]となった。関東軍の意向は「満洲国の元首は執政、ただし執政が善政を敷くこと数年に及ぶならば、全国民の推戴によって執政は皇帝となる」というものであった。1934年(康徳元年)3月1日、満洲国は帝政に移行して溥儀が皇帝に即位、それによって「執政」の称号は消滅した。満洲国の組織法第三条は「皇帝は国の元首にして統治権を総攬し本法の条規によりこれを行ふ」と規定した[17]

ヴィシー政権のフランス(国号は「フランス国」、1940年 - 1944年)の国家元首はフィリップ・ペタン元帥であった。国家元首としてのペタンはフランス国家主席(フランス語: Chef de l'Etat francais)の称号を名乗っていた。この国は、憲法が「全権力をペタン将軍に委任する」の1条だけから構成されるという、きわめて特異な国家体制を採っていた。
日本の元首詳細は「日本の元首」および「象徴天皇制#議論」を参照

大日本帝国憲法では天皇を元首と規定していたが、日本国憲法を始めとする現行の日本の法律には国家元首の規定がない。

内閣法制局は、「要するに元首の定義いかんに帰する問題である」「かつてのように元首とは内治、外交のすべてを通じて国を代表し行政権を掌握をしている、そういう存在であるという定義によりますならば、現行憲法のもとにおきましては天皇は元首ではないということになろう」「今日では、実質的な国家統治の大権を持たれなくても国家におけるいわゆるヘッドの地位にある者を元首と見るなどのそういう見解もあるわけでありまして、このような定義によりますならば、天皇は国の象徴であり、さらにごく一部ではございますが外交関係において国を代表する面を持っておられるわけでありますから、現行憲法のもとにおきましてもそういうような考え方をもとにして元首であるというふうに言っても差し支えない」[18]「天皇は限定された意味における元首である」としており[19]、天皇を元首と呼びうるかは定義によるとしている[20]

憲法学説上は議論があり、多数説は内閣または内閣総理大臣元首説で、元首不存在説等もある。

外交慣例上では天皇は元首と同様の待遇を受けている[21]
国家元首に関する慣例

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国家元首の慣例とみなされる例については「兵は誰に忠誠を誓うか」や「自国で開催されたオリンピック開会式の開会宣言は誰が行うか」などがある。
外交特権

国家元首や政府の長および外務大臣については、慣例により対象国による外交官接受がなくとも外交特権が認められる。

パスポート査証の扱いも異なり、例えば日本では、皇后を除く皇族が外交の際に用いるパスポートは外交旅券であり、天皇及び皇后は旅券は必要ない。公式訪問の際には、受入れ(接受)国に保護義務が発生する。
兵は誰に忠誠を誓うか

古代ローマの昔より軍はインペリウムローマ法に承認された命令権)に対して忠誠の宣誓を行なうことが政軍関係の基礎とされていた。

日本では1882年(明治15年)の軍人勅諭において、統帥権は天皇にあり忠節は国家・国権に尽くすものとした。戦後、この忠誠宣誓自衛隊法施行規則(39-42条)により規定された[22] が、国、日本国憲法法令および国民の負託に宣誓する体裁をとっており、天皇内閣総理大臣に対する宣誓の体裁は採用していない[23]。一方で自衛隊法第7条により、内閣総理大臣は内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する、とされる。なお、服務宣誓については国家公務員一般職(国家公務員法第97条[24])、地方公務員一般職(地方公務員法第31条[25])においても求められる。
オリンピックの開会式の開催宣言は誰が行うか「オリンピックの開会宣言者一覧」も参照

オリンピック憲章では近代オリンピックの開会宣言は、開催国の国家元首によっておこなわれるものと規定されている[26]


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