国家元首
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他に社会主義国の特徴としては、正式には国家の最高決議機関の常設委員会に国家元首の権能が与えられ、その議長が代表して国家元首の権限を執行するケースが見られる[注 7]

北朝鮮の国家元首に関する規定は複雑であり、名目上の国家元首と実際の最高権力者が一致しない時期がある。

1948年から1972年までは、政治的実権は首相であった金日成にあったが、形式上は最高人民会議常任委員会委員長が元首であった。

1972年から1994年までは、金日成が朝鮮民主主義人民共和国主席として国家元首になったが、1994年に金日成が死去したことによって主席が空席となる。その後、1998年の憲法改正で金日成を「永遠の主席」と表記したことに伴い、主席は廃止された。そして、2009年に改訂された現行の朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法の序文でも、金日成を「永遠の主席」としている。

2009年までの国家元首は最高人民会議常任委員会委員長であった。1998年憲法第111条で「最高人民会議常任委員会委員長は、国家を代表し、外国の使臣の信任状、召還状を接受する」と規定されているからである。ただしこの職の権能は儀礼的な部分にとどまり、実際の最高権力は朝鮮労働党中央委員会総書記朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長、朝鮮人民軍最高司令官の金正日が掌握していた[注 8]

2009年に同国の憲法が改正され、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会委員長(以下「国防委員長」)を「朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者である」(第100条)と明確に規定した。これにより、国防委員長が国家の最高指導者としての国家元首に宛てられたことになる。ただし、その一方で「最高人民会議常任委員会委員長(以下「常任委員長」)は、国家を代表し、外国使節の信任状、召喚状を接受する」(第117条)という規定もそのまま残されており、常任委員長も国家元首の権能の一部(ただし儀礼的な部分に限られる)を行使していることになる。

2011年に金正日が死去すると国防委員長は空席となり、翌年の第12期最高人民会議第5回会議で金正日を「永遠の国防委員長」と位置づける決議が採択されるとともに、憲法が改正されて国防委員長の職は廃止された。新たに国家の最高指導者として国防委員会第一委員長が設置され、金正恩が就任した。

2016年6月29日に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が改正され、朝鮮民主主義人民共和国国防委員会が廃止され、それに代わる国家の最高政策指導機関として朝鮮民主主義人民共和国国務委員会が設置された。国家の最高指導者と規定された国務委員長には、金正恩が就任した。

2019年8月29日に朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法が改正され、朝鮮民主主義人民共和国国務委員長に法令や重要な政令、決定を公布する権限と外国に駐在する外交代表の任命や解任の権限が規定された。
朝鮮民主主義人民共和国社会主義憲法 第100条—国務委員長は、国を代表する朝鮮民主主義人民共和国の最高指導者である。

キューバでは、2019年までは国家元首は国家評議会議長であり、単に儀礼的地位にとどまらず強大な権限を有していた。さらに、内閣に相当するのは閣僚評議会であり、閣僚評議会議長が行政権の担当者としての首相に相当する。機構上ではその両者は分離されているが、1976年制定の新憲法では国家評議会議長は閣僚評議会議長が兼任すると規定されており、国家元首と行政権の首長の権能は統合されて国家の最高指導権が集中していた[注 9]ラウル・カストロが国家評議会議長を退いた2018年以降は大統領制が導入され、国家元首は大統領と定められた。
専制国家・軍事国家・独裁政治国家の国家元首

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形式的には共和制などの政体を採っているものの、実際には終身大統領のような独任制の元首が強大な政治的権限を有している。軍部・宗教団体・部族・外部勢力といった特定の集団が権力を掌握し、その代表者が元首に就任していることが多い。これらの場合、形式的に議会は存在していても、それは国家元首や特定集団の追認機関に過ぎない。民主的で公正な選挙が行なわれていないこともよく見られる。北朝鮮、アフリカの多くの諸国や、いわゆる「開発独裁」制を敷く国家、かつての南米の多くが、これに分類される。

軍事国家では、軍部出身の大統領が国家元首となる場合や、軍事政権が樹立した「○○評議会」(革命評議会、救国評議会、国家評議会など)議長が国家元首の役割を果たす場合、などがある。

1988年9月から2011年2月までのミャンマーの国家元首は、国家平和発展評議会議長(ソウ・マウンタン・シュエ)だった。同国は2011年2月に大統領制に移管し、選挙の結果としてテイン・セイン首相が大統領に就任した。大統領制移管後も暫くは、国家平和発展評議会議長のタン・シュエが国家元首と目されていたが2011年3月に国家平和発展評議会は解散となり、タン・シュエは政治的影響力を行使しなくなった。軍事政権の基盤は与党の連邦団結発展党に引き継がれ、2011年3月の国家平和発展評議会解散後の国家元首は名実ともに大統領のテイン・セインになった。それ以降、ミャンマーは少しずつ民主化路線を受け入れていき、2016年3月30日国民民主連盟が選出したティン・チョーが大統領に就任し、54年ぶりの文民大統領が誕生した。

モーリタニアでは2008年に軍事クーデターが起こって大統領が失脚し、軍事政権の高等国家評議会議長(ムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズ)が国家元首となった。2009年、大統領選が実施されて形式的には民政移管を果たし、国家の形態も大統領制に戻った。ただ、新しい大統領となったのは前高等国家評議会議長のムハンマド・ウルド・アブデルアズィーズであった。

かつてのナチス・ドイツでは、1934年8月2日に発効した「国家元首に関する法律」によって、それまで国家元首であった大統領首相の職務が統合され、指導者および首相であるアドルフ・ヒトラー(Der Fuhrer und Reichskanzler Adolf Hitler)個人に大統領権限が委譲された。これはヒトラーが民族共同体の指導者であるという指導者原理に基づくものであり、法律や命令を必要とせず、発言すべてが「法」となる存在となった(総統を参照)。

ナチス・ドイツの支配下にあったクロアチア独立国1941年 - 1945年)では、建国当初の国家元首は国王(トミスラヴ2世)であった。しかしこの地位はまったく形式上のもの(トミスラヴ2世は終始イタリアに居住し、クロアチアには足を踏み入れることがなかった)であり、国家の最高指導者はポグラヴニク(国家指導者または総統と訳される)の称号を名乗るアンテ・パヴェリッチであった。さらに、1943年のイタリア敗戦にともなってトミスラヴ2世国王が退位したため、パヴェリッチはポグラヴニクの称号のもとで名実ともに国家元首となった。
特殊な政体を採る国家の元首

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ムアンマル・アル=カッザーフィー(カダフィ大佐)が支配していた時代のリビアジャマーヒリーヤ直接民主制)という特異な政体を標榜しており、法的には国家元首は存在しなかった。通常は国家元首の職務とされている権能の一部は、全国人民会議書記が担っており、同書記が事務的には元首代行ともいえる。事実上の最高指導者は革命指導者のカッザーフィーであり、1979年までは革命評議会議長や全国人民会議書記長という役職に就いていた名実ともに国家元首であった。カッザーフィーは1979年に一切の公職を退いているが、それ以降も革命指導者という肩書で他国元首と親書のやり取りをするなど、対外的に国家元首と受け取れる役割を担っていた。


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