国守
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なお道長は8年後の長和3年2月の除目で、摂津を地盤としていた源頼親を摂津守に推挙するという矛盾した行動をとっている[14]

鎌倉時代にも国司は存続したが、鎌倉幕府によって各地に配置された地頭が積極的に荘園、そして国司が管理していた国衙領へ侵出していった。当然、国司はこれに抵抗したが、地頭は国衙領へ侵出することで、徐々に国司の支配権を奪っていった。

また、北条氏による鎌倉幕府の支配が確立してからは、執権が幕府の本拠がある相模国の国司、副執権である連署武蔵国司に任じられるようになり、執権・連署を併せて「両国司」[15]と呼ばれた[16]
国司の形骸化と受領名の発生

室町時代になると、守護に大幅な権限、例えば半済給付権、使節遵行権などが付与された。これらの権限は、国司が管理する国衙領においても強力な効力を発揮し、その結果、国司の権限が大幅に守護へ移ることとなった。国衙の機構は守護(守護大名)に吸収され、大半の国司は名目だけの官職となり、国の支配とは一切関係がなくなった。

戦国時代には武将が、国司の官職を仮名 (通称)として自称、あるいは主君から授けられることが見られるようになった。これは受領名と呼ばれる。一方で自国領土支配もしくは他国侵攻の正当性を主張するため、国司の正式な任官を求める事もみられた。大内義隆の周防介・伊予介、織田信秀今川義元徳川家康三河守などはその例である[17]。こうした戦国大名は叙任のために朝廷や公家に盛んに献金などを行った。これは、天皇の地位が再認識される契機ともなった[注釈 3]

特殊な例としては伊勢国北畠家飛騨国姉小路家土佐国一条家のいわゆる「三国司」がある。この三家はいずれも公家としての家格を持ち、守の官職についていたわけではないが、「国司」として一国の支配権を得ていると認識されていた。
江戸時代の受領名

江戸幕府成立以降は、大名旗本、一部の上級陪臣が幕府の許可を得た上で、家格に応じて受領名を称することが行われた(武家官位)。守や親王任国の介の国司名を称することのできた大名や旗本は「諸大夫」と呼ばれた[18]。しかし受領名は朝廷の正式な叙任を受けた形式をとるにせよ、「名前」の扱いであり、律令制の官位相当における上下は、特段の意味を有していなかった[19]。受領名を称するに当たっては幕府及び朝廷に礼金を支払う事が行われた[20]。受領名は限られていたため、同時期に複数の人物が同じ名を名乗ることも多かった。同じ役職に就いた場合には先任のものに遠慮して他の職に遷任する例であった。また律令における受領の官位相当は考慮されず、上下はなかった。

また、諸大夫以上の家格である「四品」以上の家格を持つ諸大名・高家も「侍従」や「近衛少将」といった官職名とは別に受領名を称した。たとえば赤穂事件で有名な吉良義央従四位上侍従・近衛少将などの官位にあったが、「上野介」の受領名を称している。なお、国持大名が自分の領国の国司を名乗るのは一種の特権とされており、小倉藩から熊本藩へ加増転封されて肥後国主となった細川忠利は息子光尚の元服時に「肥後守」を名乗れるよう運動している[21]

浄瑠璃などの芸能者や、菓子舗などの職人が朝廷や公家等から免許を受けて掾などの下級の国司名を称することも行われた。播磨節の創始者井上播磨掾や、菓子屋の虎屋が近江大掾を称したのはその例である。

明治維新後、律令制度の廃止とともに国司は廃止された[注釈 4]
国等級区分

各国に課せられた納税の規模は、当時の各国の国力に基づき判定された。

各国は時節の国情、時勢を元に変動する大国(たいこく、たいごく)・上国(じょうこく、じょうごく)・中国(ちゅうごく)・下国(げこく)の4等級に割り付けられた。

国司の格や役職数も時勢に基づき変動したが、基本的に官位相当は大国の守は従五位上、上国の守は従五位下、中国の守と大国の介は従六位下、上国には介を置き中国には介を置かず下国には介掾は置かないなどの規則が大宝令・養老令に定められていたものの、実際には各国の国司の繁忙さに合わせて国司の人員調整が行われていた。これを示すものとして、以下のような例がある。
続日本紀宝亀6年(775年3月2日の条によれば、「始めて伊勢国に少2員、参河国に大目1員と少目1員、遠江国に少目2員、駿河国に大目1員と少目1員、武蔵国に少目2員、下総国に少目2員、常陸国少掾2員と少目2員、美濃国に少目2員、下野国に大目1員と少目1員、陸奥国に少目2員、越前国に少目2員、越中国に大目1員と少目1員、但馬国に大目1員と少目1員、因幡国に大目1員と少目1員、伯耆国に大目1員と少目1員、播磨国に少目2員、美作国に大目1員と少目1員、備中国に大目1員と少目1員、阿波国に大目1員と少目1員、伊予国に大目1員と少目1員、土佐国に大目1員と少目1員、肥後国に少目2員、豊前国に大目1員と少目1員を置く」とある。

文徳天皇実録天安2年(858年4月15日の条によれば、「下野国に大掾と少掾を各1名ずつ配置する」とある。

日本三代実録貞観8年(866年3月7日の条によれば、当時の国司の介を置いていなかった上国を含む八国(甲斐国能登国丹後国石見国周防国長門国土佐国日向国)に介を置き飛騨国に掾を置くなど、公廨稲公廨田事力の新たな分配を示す太政官判定があった旨が見え、これら9国で国司の増員が行われていたことが分かる。

ただし、この増員を国司の繁忙さだけを理由には出来ないとする説もある。天平宝字元年(757年)に余剰の公廨の一部を国司の官人達に分配して収入とすることが認められた結果、国司四等官の地位に利権としての要素が高まり、地方への赴任を臨む者が増加したため、そうした需要に応えるために財政的余裕がある国の定員を増やしたのではないかとする見方もある。神護景雲元年(767年)以降に記録上に現れる権守をはじめとする権官の設置がみられるようになるのも同様の趣旨とみられている。この指摘を裏付ける物として、天応元年(781年)に郡司・軍毅を除いてこれまでの増員分は全て一律に廃止されている。また、権守などの権官は引き続き残されるが、こちらも遙任として扱われるようになっている[22]
延喜式の時代の各国の等級

延喜式が策定された10世紀ごろの各国の等級は以下のとおり。
大国(13カ国)
大和国・河内国・伊勢国・武蔵国・上総国・下総国・常陸国・近江国・上野国・陸奥国・越前国・播磨国・肥後国
上国(35カ国)
山城国・摂津国・尾張国・三河国・遠江国・駿河国・甲斐国・相模国・美濃国・信濃国・下野国・出羽国・加賀国・越中国・越後国・丹波国・但馬国・因幡国・伯耆国・出雲国・美作国・備前国・備中国・備後国・安芸国・周防国・紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・豊前国・豊後国・筑前国・筑後国・肥前国
中国(11カ国)
安房国・若狭国・能登国・佐渡国・丹後国・石見国・長門国・土佐国・日向国・大隅国・薩摩国
下国(9カ国)
和泉国・伊賀国・志摩国・伊豆国・飛騨国・隠岐国・淡路国・壱岐国・対馬国
熟国・亡国

摂関政治期(10世紀)以降には、「熟国」と「亡国」と呼ばれる表現が登場する。熟国は「大国」「要国」とも称されて税収が豊かで朝廷財政を支える国、亡国は「亡弊国」「難国」「難治国」とも称されて税収が不安定であったり、災害や治安の悪化などで統治が困難な国を指した。ただし、その判断は具体的な数字に基づくものではなく、中央の判断に依拠するところが大きい(権力者の思惑で認定の有無が変わることがある)。受領による租税徴収の請負が確立されていた(裏を返せば中央へ納税した後の余剰を収入にすることが可能であった)当時において、多くの人々が熟国の受領に就くことを望み、特にほとんどの時期において熟国と判断されていた播磨国や伊予国の国司になることは大変名誉なこととされていた。


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