国学
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また時代が昭和に入ると、『馭戎慨言』は「大東亜共栄圏に臨むにあたって必読すべき書」として利用されている[9]

篤胤の弟子であった経世家佐藤信淵は『宇内混同秘策』において「凡ソ他邦ヲ經略スルノ法ハ弱クシテ取リ易キ処ヨリ始ルヲ道トス今ニ當テ世界萬國ノ中ニ於テ皇國ヨリシテ攻取リ易キ土地ハ支那國ノ滿州ヨリ取リ易キハナシ」と述べ[10]出雲松江長州博多から朝鮮半島を攻撃するという具体案を提示している[7]。さらに「武力によって満洲支那台湾フィリピンを攻め、南京皇居を移し、全世界を全て皇国の郡県となす」と世界制覇を夢想している[11]

吉田松陰は「朝鮮を責めて、質を納れ、貢を奉ずること古の盛時のごとくならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾、呂宋諸島を収め、進取の勢を示すべき」「国力を養ひて取り易き朝鮮、支那、満洲を斬り従えん」と獄中から弟子たちに書き送り[12]、これを弟子の桂小五郎が具体化して征韓論を唱えた[13]。しかし、松陰が国学の思想に影響を受けているのは事実であるが[14]、学問の根本は儒学に依拠しているため、「代表的人物として取り上げるのは不適切」とする意見もある[15]

こうした思想のため第二次世界大戦期にかけて国学は教科書に盛んに取り上げられたが、戦後は一転してGHQのもと削除の対象となった[16]。戦後の脱国学化した日本史の中心的人物となった津田左右吉は戦後、「神道や国学やまたは儒教の思想をうけつぎ、それを固執するものがあって、こういう研究(※古典・皇室研究)に反対し、時には官憲を動かしてそれを抑制しようとした」「根本的には、日本人の文化の程度が低く教養が足らず、特に批判的な精神を欠いていて、事物の真実を究めまたそれによって国民の思想と行動とをその上に立たせようとする学問の本質と価値とを理解するに至らないためであった」としている[17]
主な国学者契沖荷田春満賀茂真淵本居宣長平田篤胤契沖、真淵、宣長は「国学の三哲」とされる[18]。「国学史上の最重要人物」として掲げられるが、これは文芸を中心とした実証研究方法に注目する立場を反映したものである[19]。春満、真淵、宣長、篤胤は「国学の四大人」とされる[18]。同じく「国学史上の最重要人物」として掲げられるが、これは大国隆正が『学統弁論』で定めたことに始まるもので[20][21]、国学の思想的主張を重視する立場を反映したものである[19]。なお、「四大人」は「したいじん[2]」「しうし[21]」「ようし[22]」「よはしらのうし」と読まれる。
江戸時代

分類等は「国学年表[23]」によった。
元禄期・宝永期・正徳期・享保期 (1688年 - 1736年)

安藤為章

海北若冲

今井似閑

元文期・寛保期・延享期 (1736年 - 1748年)

荷田在満

田安宗武

寛延期・宝暦期・明和期 (1748年 - 1772年)

谷川士清

楫取魚彦

加藤美樹

安永期・天明期・寛政期 (1772年 - 1801年)

上田秋成

村田春海

加藤千蔭

賀茂季鷹

栗田土満

荒木田久老


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