国勢調査_(日本)
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1952年住民登録法によって作られ、1967年住民基本台帳法を経て現在に至る住民票の制度も、居住の実態と対応していないことが多いという特徴を、その前身である寄留簿から受け継いでいる。引っ越ししても住民票の転入転出届を出さない人が多いのである。特に就学単身赴任入院などによる期間が限定的な人口移動は、そうなることが多い。たとえば大学の多い地域では、転入手続きをしないまま大学に通う若者が多いため、住民基本台帳に登録される若年人口が過少になる。実際、市内に大学が数多くある東京都八王子市では、2015年の住民票に基づいた人口は56万3000人だったのに対し、同年の国勢調査で判明した市内人口は57万8000人と、1万5000人多かった[5]

このように、行政が経常的に業務上把握しているデータには人口の実態から乖離している部分があるため、それを埋めるための定期的全数調査が必要になる[6]。住民票を移していない人も、その地域で生活している以上、さまざまな行政サービスを利用するし、地元の社会経済的活動にも関わる。自治体にとっても民間企業にとっても、中長期的計画を立てるうえで無視できない要素なのである。また、政策立案などのために就業状況や従業地などのデータが必要になることも多いが、そうした情報は住民基本台帳にはない。住民基本台帳とは別に、5年ごとに国勢調査を全国一斉に行う制度になっているのは、こうした事情による。
歴史
国勢調査の起源と名称について

日本の国勢調査の萌芽は、統計学者・杉亨二駿河国(現在の静岡県)でおこなった調査に基づいて作成した「沼津政表」「原政表」(明治2年(1869年)実施)や、甲斐国現在人別調(明治12年(1879年)実施)に見ることができる(横山雅男『統計学』[12]22, 260-261頁)。特に、現在の山梨県で行われた甲斐国現在人別調は、本格的な全国規模人口センサスに向けた試験調査として行われたもので、調査実施のノウハウを得る貴重な機会であった。そこで調査を経験した呉文聰、高橋二郎、寺田勇吉岡松徑らが、後の国勢調査実施の中心的役割を担うことになる[11]。もっとも、当時の社会情勢では、全国調査実施の機運は十分に高まらなかった。

日清戦争(明治27年(1894年)8月 - 28年(1895年)4月)の終わった明治28年(1895年)9月21日、欧米諸国の統計局長及び著名な統計学者により構成される国際団体である国際統計協会 (International Statistical Institute) から日本政府に対して「1900年世界人口センサス」への参加の働きかけがあった[注釈 2]。これを契機として国勢調査の実施の機運が高まることとなった[5]。明治29年(1896年)、貴族院及び衆議院では「国勢調査ニ関スル建議」が可決された。日本の公的な資料において国勢調査の語が登場したのはこれが最初である。この建議では、国勢調査について、「国勢調査ハ全国人民ノ現状即チ男女年齢職業…(中略)…家別人別ニ就キ精細ニ現実ノ状況ヲ調査スルモノニシテ一タビ此ノ調査ヲ行フトキハ全国ノ情勢之ヲ掌上ニ見ルヲ得ベシ、…」[14]との記述があり、このことから、「国勢調査」という名称は「国の情勢」を調査するという意味で名付けられたものと考えられている。

国勢調査を実施するための根拠となる「国勢調査ニ関スル法律」[15] は、この建議から6年後の明治35(1902年)12月2日に成立し、公布された。これに基づき、第1回国勢調査は明治38年(1905年)に行われることになっていたが、日露戦争(明治37年(1904年) - 38年(1905年))のため、実施は見送られた。さらにその10年後の大正4年(1915年)にも、その前年から日本も参戦した第一次世界大戦の影響などで実施が見送られ、最初の国勢調査の実施は大正9年(1920年)10月1日を「調査時」とするものとなった。

「国勢調査」の語源については諸説ある。論文に登場する最も古い用例は、臼井喜之作が明治26年(1893年)に『統計学雑誌』86号に掲載した「国庫剰余金より国勢大調査費を支出すべきの議」である。その中には、「彼の日本新聞は客年既に国勢調査の必要性を論じて曰く…」との記述があることから、すでに「国勢調査」が当時の新聞に登場していた可能性がある。ただし、当時の『日本新聞』を探索した奥積雅彦[16] によれば、該当する新聞記事は発見できていないという。

なお、「国勢」という語は、国勢調査以前にも大隈重信などにより用いられている。大隈重信は、明治14年(1881年)に建議した「統計院設置の件」の冒頭で、「現在ノ国勢ヲ詳明セサレハ 政府則チ施政ノ便ヲ失フ 過去施政ノ結果ヲ鑑照セサレハ 政府其政策ノ利弊ヲ知ルニ由ナシ …(中略)…現在ノ国勢ヲ一目ニ明瞭ナラシムル者ハ統計ニ若クハ莫シ」[17][18]と述べている(大意:現在の国の情勢を詳しく明らかにしなければ、政府は施政の手段を失う。過去の施政の結果を詳しく調べなければ、政府はその政策の利点や弊害を知る方法がない。…現在の国の情勢を一目で明瞭にするものとして統計に並ぶものはない)。「国勢」という語は、statistics(語源はstate=国)の訳語に充てられていた「国勢学」にも用いられていたことからも分かるように、明治初期以降、一般に用いられていたものと推定される。

しかし、1895年国際統計協会から「世界人口センサス」への参加の働きかけがあった際には、日本統計学者間に、「センサス」を日本語でどう呼ぶかについての統一見解はなかった。「人別調査」「人口調査」「民勢調査」「国民調査」など、いろいろな訳語案が共存していた[16]。第16回帝国議会に「国勢調査ニ関スル法律案」[15] を提出した際の主唱者、内藤守三衆議院議員によれば、当時の有力な統計学者のなかで杉亨二は「人別調査」、呉文聰は「民勢調査」という名称を推していた。内藤はそれに対して「理屈は兎に角日本帝国の調査は国勢調査と称ふるのなら文句の通りが好い」(『日本国勢調査記念録』[注釈 3](1922年) 第1巻より「国勢調査法律案提出に関する前後の状況」41頁)と答えて「国勢調査」で押し通したのだという。内藤はこれ以上のことを述べていないが、「国勢」は「国家の勢力」だと解釈できるため、当時の「国の力を増し、欧米に追いつき追い越せ」という風潮に乗り、「国の勢力を調べる調査」というイメージを含ませることによって国家指導者の調査への賛同を得るという思惑があったと見ることもできる[11]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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