江戸幕藩体制における国主(こくしゅ)は、近世江戸時代の大名の格式のひとつで、領地が一国以上である大名を言い、太守、国持大名ともいう。また、大名家をその居地・居城から格付けする国主(国持大名) - 準国主 - 城主 - 城主格 - 無城(陣屋)のうちの一つである。ここでは国主・準国主について記述する。大国守護でありながら管領や御相伴衆にならない家柄をさす中世室町時代の国持衆が語源。本国持10家(後12家)及び一国持ちではないが、大領を有した大身国持がある。
陸奥国・出羽国についてはその領域が広大であることから、一部しか支配していない仙台藩(伊達氏)・盛岡藩(南部氏)・秋田藩(佐竹氏)・米沢藩(上杉氏)[1]を国主扱いにしている[2]。また肥後国には熊本藩の他に人吉藩や天草諸島(唐津藩領、島原の乱以後は天領)があったが、熊本藩を国主扱いにしている。逆に、国の範囲が狭少であることから壱岐一国一円知行の松浦肥前守(平戸藩)、桃山時代に国域が狭少になった志摩一国[3]一円知行の九鬼氏・稲垣氏(鳥羽藩)はそれぞれ国主・国持とはされない。小浜藩(酒井氏)は若狭一国および越前敦賀郡を領するも本家である姫路藩酒井氏との釣り合いから国持とはされない(ただし酒井忠勝は徳川家光により一代限りの国持となったとされる)。
また、大身であっても徳川御三家、松平肥後守(会津藩)、松平讃岐守(高松藩)、井伊掃部頭(彦根藩)、久松家(松山藩)(桑名藩)も国主・国持という家格には加えない(御三家は別格であり、会津藩松平家・高松藩松平家・井伊家も代々将軍の執務席に最も近く格式の高い溜之間[4]を伺候席とする「常溜」であり、特別な家格を有していた)。また、一部に四品に昇任する家系を国主格ということもある。 時代により「国持十四家」[5]から「国持二十家」まで呼び方に差があるが、名数や歴史の辞典などでは「国持十八家」[6]での掲載が多い。(南部が従五位下・奏者番伝謁、有馬が無城[7]、福井が25万石に減封[8]時、柳沢が川越7万石、津山が5万石に減封、宗が2万石格の時期は国主ではない) とされるが、例外もある。 国主・国持大名のうち、山内家を除く松平姓の家と、鎌倉府および室町幕府の重臣であった上杉家(宗尊親王の近侍・勧修寺重房より)・細川家(足利義詮の執事・細川清氏より)は世嗣の殿上元服・賜諱(偏諱の授与)がある。また、武家官位として国持大名が自分の領国の国司を名乗るのは一種の特権とされており、通常の実体のない「?守」名乗りとは違うものとされていた[10]。 本国持(一国一円)10家(藤堂氏、松江松平氏の2氏は後世)家名領国城地石高伺候席初官経過極官備考
国主・国持大名の基準
家督時に四品(従四位下)侍従以上に叙任。部屋住の初官は従四位下以上で、五位叙任のない家。
参勤交代で参府・出府時、将軍に拝謁以前に上使として老中が大名邸に伝達にくる栄誉をもつ家。
石高での下限は確定できない[9]。
国主の一覧
松平加賀宰相
前田家加賀・能登・越中金沢102万5,000石大廊下-下正四位下権少将家督時-権中将/50歳-宰相従三位殿上元服・偏諱
松平修理大夫
島津家薩摩・大隅・日向鹿児島72万石大広間従四位下侍従家督時-権少将従四位上権中将殿上元服・偏諱・薩摩守独占
松平長門守
毛利家長門・周防萩36万9,000石(関ヶ原後は29万石、江戸初期に高直し)大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平因幡守
因幡池田家因幡・伯耆鳥取32万5,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平阿波守
蜂須賀家阿波・淡路徳島25万7,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平筑前守
黒田家筑前福岡47万3,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱
松平安芸守
浅野家安芸広島42万6,000石大広間四品家督時-侍従従四位下権少将殿上元服・偏諱