国中地方
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戦国時代

16世紀 - 戦国大名武田信玄の活躍[1]躑躅ヶ崎館の整備[1]甲斐金山の開発。

1547年 - 甲州法度次第(信玄家法)が制定される。

1560年 - 信玄堤が築かれる。

1582年 - 天目山の戦い。戦国大名武田氏滅亡[1]。織田氏のちに徳川氏の支配に[1]

安土桃山・江戸時代

旧武田領に
加藤光泰浅野長政ら豊臣系大名が入部。

江戸時代 - 初期は甲府藩[1]。1724年、江戸幕府領となって甲府勤番が置かれる[1]

五街道のひとつ、甲州道中が整備される[1]

富士川舟運の発達。

明治・大正期

1868年 - 官軍の甲府城入城[1]

甲斐府、甲府県を経て山梨県が置かれる[1]

ワイン醸造業・製糸業の発達[1][注釈 1]

1911年 - 中央本線の敷設、開業[1]

大正・昭和初期 - 小作争議の多発[1]

昭和以降

1982年 - 中央自動車道全線開通。

1996年 - リニア実験線設置。

1996年 - 日本住血吸虫症終息宣言。

2014年 - 中央新幹線着工。

地域

観光ガイド形式に、国中地方をJR中央本線沿線(笹子峠 - 小淵沢)・JR小海線沿線(県内区間)、JR身延線沿線(県内区間)、の2つのエリアに分けて、順に紹介する。
JR中央本線・小海線沿線中央本線で東京大月方面から笹子峠笹子トンネルを抜けると甲州市に入る。中央本線は高低差を稼ぐために大きく迂回して甲府方面を目指す。甲州市や笛吹市、山梨市などの峡東地域は果樹園が特に多く、「勝沼ぶどう郷」という駅が存在するほどである。この果樹園は元々は桑畑っだったところが多いが、1960年代以降桑園に代わって果樹園が急増した。電車が進むと視界が開けてくる。そして甲州市の中心駅である塩山駅に到着する。塩山駅周辺には甲州市役所や甘草屋敷などがある。塩山駅を過ぎると甲府盆地に突入し、傾斜も緩やかになる。石和温泉駅に到着し、駅を出ると駅前に足湯がある[3]石和温泉は山梨最大級の温泉街であり、かつて最大だった信玄の湯 湯村温泉をも超える規模である。石和温泉駅を過ぎると景色は一気に都会になり、甲府市になる。次の駅である酒折駅周辺には山梨学院大学甲斐善光寺などがある。酒折駅を過ぎると静岡県の富士駅から来た身延線と並走し、山梨県の中心駅である甲府駅に到着する。甲府駅南口には山梨県庁甲府市役所、日本銀行甲府支店などの官公庁の他に甲府城(舞鶴城)跡などの歴史的建造物もある。甲府駅北口には甲州夢小路旧睦沢学校校舎武田神社などの歴史的建造物が残っている。中央本線を進み、次の竜王駅では安藤忠雄が設計したホームを覆う大屋根が特徴の駅がある。竜王駅がある甲斐市は甲府市のベッドタウンとして甲府市と密接な関係を持っている。韮崎駅周辺では七里岩の上に建てられた巨大な平和観音を見ることができる。韮崎駅を過ぎたあたりから市街地を抜け、住宅と田畑が混在した区間になる。この付近から市域が変わり、韮崎市から北杜市となる。そして小淵沢駅に到着する。小淵沢駅から小海線方面に進むと中央自動車道小淵沢IC付近を通過し、ホテルなどが多い区間になる。清里駅周辺には清泉寮サンメドウズ清里スキー場などのレジャー施設が多くなる。そして県境を超えて長野県へと至る。
JR身延線沿線甲府駅から身延線に沿っていくと、善光寺駅付近まで中央本線と並走する。途中金手駅があるが、ホームは身延線のみで中央本線は停車しない。善光寺駅は甲斐善光寺に向かうのに近い。線路は大きく右に曲がり南を目指して進んでいく。そして南甲府駅甲斐住吉駅国母駅と住宅密集地を突っ切るような形で続く。次の常永駅はイオンモール甲府昭和に向かう人などで身延線の中では混雑している駅である。鰍沢口駅を過ぎると線路は一気に山間部へ突入する。途中の身延駅は身延線山梨県区間の途中駅の中で最大の規模で、身延山久遠寺への玄関口となっている。その後は中部横断自動車道や富士川と並走しながら進んでいき、身延線と富士川は静岡県富士市方面へ、中部横断自動車道は静岡市方面へと至る。
都市圏国中地方の都市圏についてについては「甲府都市圏」を参照
選挙区

国政選挙では、国中地方の峡東地域を除く地域で衆議院小選挙区山梨県第1区)を構成している。
各地域
峡中

釜無川流域を西限に甲府盆地の西半分に位置する地域。北側は奥秩父山塊が連なるが、南側はほぼ平地である。四方を山に囲まれているためフェーン現象の影響を受けやすい。この一帯は「甲府広域市町村圏」となっており、位置的だけでなく経済的にも「峡(甲斐)の中央」である。

「峡中」の地域呼称は江戸時代から見られ、荻生徂徠『峡中紀行』など本来は国中地方の内部呼称ではなく、甲斐国全域を指す地域呼称として用いられていた。明治4年の廃藩置県を経て、甲斐国の府県名は国中三郡の山梨郡に由来する「山梨県」となったが、明治初期には「山梨県」の府県名に抵抗があり自由民権運動における『峡中新報』や民権派政党名などに盛んに用いられ、郡内地方においても受け入れられていた。明治20年代には「峡中」の使用が減り県全体を指す地域呼称として「山梨」が用いられるようになり、現在はメディアなどを通じて国中地方における地域呼称として定着している。
峡北

八ヶ岳を西端とし、甲府盆地の北西部に位置する地域。釜無川を挟んで南側に赤石山脈(南アルプス)、北側に奥秩父山塊がある。八ヶ岳周辺は山岳高原地であるため夏は涼しい一方、冬は「八ヶ岳おろし」という季節風が甲府盆地方面へ吹くため非常に寒く感じる。また比較的に天気が安定しており、年間日照時間が長い地域であることも知られる。戦国時代は馬産地として知られ、武田勝頼によって新府城が建てられたりもした。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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