団結小屋
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8月6日早朝より仮執行によって強制撤去が行われた[10]

撤去後、湾曲箇所の線形改良工事が施され、誘導路上での待機がなくなり、運用上の制約がほぼ解消された。ただし、東峰地区に反対派の耕作地があるため、平行誘導路の湾曲部が残されている。
木の根育苗ハウス

中核派の拠点であったが、1990年3月19日に除去された[11]
三里塚闘争会館

中核派の拠点であったが、1990年8月22日に除去された[11]
大清水団結小屋

もともと日本社会党の現地闘争本部だったが、後に革労協が拠点として使用した[12]

1990年10月15日、新東京国際空港の安全確保に関する緊急措置法(現・成田国際空港の安全確保に関する緊急措置法、以下「成田新法」)に基づく強制撤去作業が行われ、団結小屋にたてこもる活動家2人が作業を行う新東京国際空港公団職員や警備の機動隊員に石などを投げるなどして抵抗したが、機動隊員に逮捕されている[13]
木の根団結砦

革労協解放派の拠点であったが、1987年11月27日に除去された[11]。詳細は「木の根団結砦撤去事件」を参照
東峰団結会館

共産同戦旗派が使用し、要塞化されていた[14]

1989年12月4日に運輸省が成田新法に基づく封鎖処分を通告したところ、中にこもる活動家が火炎瓶を投げつけるなどしたため、除去処分に移行した。攻防は6日間に及んだが、警察の「鳥かご作戦」により負傷者を出さずに活動家の排除と建造物撤去が完了した。5人が逮捕された[14][15]
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岩山鉄塔「岩山闘争記念館」詳細は「東山事件#「岩山鉄塔」と反対派」を参照

芝山町岩山字押堀にかつて存在した、A滑走路を離着陸する飛行機を阻害することを目的として建てられた妨害鉄塔。「岩山大鉄塔」とも呼ばれる。

高木仁三郎の提案に反対同盟青年行動隊が賛同して建設が始まり、1972年(昭和47年)に鳶職の支援もあって実現した。鉄塔の高さは制限表面を上回る60.6メートルもあった[16]。「われ敢然として開港を阻む」と書かれた大看板が掲げられ、足場には詰所として使われた赤く塗られたバスバリケードが設置された[17]

なお、鉄塔周辺の岩山部落の住民らは、鉄塔撤去のための道路敷設に必要な用地提供を切り札にして新東京国際空港公団と交渉を行い、岩山部落は神社や墓地なども含め村の機能をすべて保持したまま集団移転する「全村移転」に成功した[18][19][20]

開港前年の1977年(昭和52年)に撤去が行われるが、これに強く反発した反対派と警察が激しく衝突した。その中で、支援者が殺害された東山事件警察官が殉職した芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件が発生している。

鉄塔の跡地に成田新法の適用を避けるため「岩山闘争記念館」の名称で団結小屋が再建された。航空機妨害用の鉄塔を上部に増築できる構造となっているが、現在は老朽化が進んでいる[21][22][23]

これが障害となって開港時にはA滑走路34Lの進入灯が計画通りに造られておらず、北風運用では着陸に4,000mの滑走路のうち3,250m分しか使用できず滑走路端から使用できるのは離陸のみであった(ディスプレイスド スレッシュホールドによる運用)。その後、進入灯設置基準が900mから720mへ変更されたことを受けて、南側に750mの進入灯が造られ、2012年平成24年)12月13日より34Lへの着陸でも本来の4,000mの滑走路の運用が行われるようになった[24]

成田空港 空と大地の歴史館では、岩山大鉄塔共有運動が行われた際に共有者に渡された木札が展示されている。


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