かつて古代には物部氏に関係した下総国千葉郡物部(現在の物井地区周辺)と山梨(現在の山梨地区周辺)という里・郷名であった。中世期には下総国臼井荘へと変わり、約600年もの間「千葉一族」の所領となった。その後徳川家康により関東が平定され、江戸期には佐倉藩・幕領となった。
幕末には下志津原に佐倉藩の砲術練習所が置かれ、その後1886年(明治19年)4月に「陸軍砲兵射的学校」が創立され、1897年(明治30年)に「陸軍射撃学校」と改称され四街道駅の北側に移転してきた。この事により、四街道の町は軍都として発展を遂げていく。1922年(大正11年)「陸軍野戦砲兵学校」と改称。しかし、終戦と同時に軍は解体(現在残るのは「陸上自衛隊下志津駐屯地)。その後、旧陸軍施設跡地は、宅地・行政・文教・商業施設などに転換され現在に至っている。 市名の由来は四街道駅から西に500メートルほどの場所(現在の「四街道十字路」北緯35度39分39.8秒 東経140度9分34秒
地名の由来
ちなみに近くには御成街道や千葉街道、成田街道や佐倉街道(年貢道)があるが、成田街道と佐倉街道が交わるのは佐倉城下であり、これらの街道は四街道の地名とは直接関係がない。 明治改元後 日清戦争後 日露戦争後 太平洋戦争前 太平洋戦争中 太平洋戦争後
年表総武本線旧線路の煉瓦造橋台
明治時代
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行に伴い、印旛郡千代田村(畔田・亀崎村役場)・旭村(鹿渡本村役場)が成立。
1894年(明治27年)12月9日 - 総武鉄道が開通し、四ツ街道駅(現・四街道駅)が設置される。
1897年(明治30年)某月某日 - 陸軍野戦砲兵射撃学校が、四ツ街道駅北側(鹿渡無番地)に移転してくる。周辺に軍需門前町(現在の四街道地区)が形成される。
1907年(明治40年)
9月1日 - 鉄道国有法により、総武鉄道が国有化、総武本線となる。
11月1日 - 四ツ街道駅が四街道駅に改称される。
昭和時代
1931年(昭和6年)7月 - 町内で豚熱が流行。ブタの移動が禁じられる[1]。
1940年(昭和15年)12月23日 - 千代田村が町制施行し、千代田町(物井役場)となる。
1945年(昭和20年)
6月10日 - 千葉空襲あり。
8月 - 終戦直前、陸軍野戦砲兵学校が解隊する。
1945年(昭和20年)9月 - 6月10日の千葉空襲で校舎の壊滅した千葉師範学校女子部が、野戦砲兵学校跡地に移転する。
1955年(昭和30年)3月10日 - 四街道町の発足/千代田町と旭村(馬渡は佐倉市へ編入)が合併し、人口18,014人の印旛郡四街道町が誕生。
1957年(昭和32年)1月1日 - 北部5集落(羽鳥、飯重、吉見、生ヶ谷、畔田)を佐倉市に編入。
1959年(昭和34年)2月1日 - 大日の飛地を千葉市に編入。
1960年代以降 - 緑ヶ丘
1977年(昭和52年)4月19日 - 四街道町が、アメリカ合衆国カリフォルニア州の都市リバモアと姉妹都市提携の盟約を締結。
1981年(昭和56年)
4月1日 - 市制施行/国勢調査で人口が約6万人となり、市制規定人口(5万人)を超えたため市制施行を行い四街道市となる/市制の施行は同県の浦安市と同日であった。