@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}豊臣秀吉による陰陽師弾圧や迫害が始まり、祈祷や占いを生業とする陰陽師を地方に追いやり、一気に力を失っていき、当時陰陽寮にいた正式な陰陽師の数をはるかに超える陰陽師と名乗る人間が全国に流れた[17][18][19]。戦国時代の迫害で、筆頭の土御門家であっても陰陽道の相伝
や法具などの多くを焼失した。陰陽道の最も重要な「大法」の泰山府君祭(たいざんふくんさい)の祭壇も喪失し、京都吉田神社から法具を借用して御所の地鎮祭を行った。その影響が大きく、宮中祭祀は神道色を色濃くしていった[20][21][22][23]。一方陰陽道は、幕府からの認可のもと、土御門泰福が垂加神道の影響を受けて天社神道として神道化させた[24][疑問点 – ノート]。明治以前においては、院政を行っていた太上天皇が四方拝(院四方拝)を行う例もあった。宮中祭祀において天皇が行う他の拝礼では、摂関や神祇伯が代拝することもあったが、四方拝は天皇本人の守護星や父母に対する拝礼であるため、代拝は行われなかった。江戸時代に白川雅喬が著した『家説略記』には、四方拝は守護星・祖廟を拝礼する儀式であると述べて神道儀礼であることを否定している(「非神祭」)ことから、四方拝が道教や陰陽道の下に成立した儀式であって、本来神道とは無関係な儀式であった可能性もある[25]。
天皇に倣って、貴族や庶民の間でも四方拜は行われ、一年間の豊作と無病息災を祈ったが[注 3]、時代を経るごとに宮中行事として残るのみとなった[注 4]。
15世紀後半には応仁の乱で一時中断されたが、後土御門天皇の治世の文明7年(1475年)に再興されて以後、19世紀後半の孝明天皇の治世に至るまで、京都御所の清涼殿の前庭で行われた。
明治以前の式次第で黄櫨染御袍を着用し、清涼殿東庭に出御する。清涼殿東庭には、あらかじめ、「嘱星御拝御座」「四方御拝御座」「山陵御拝御座」の三座が設けられている。
天皇はまず最初に「嘱星御拝御座」に着座して、天皇の属星(ぞくしょう)[注 5]に拝礼する。次に「四方御拝御座」に着座して天地四方の神霊に拝礼する。最後に「山陵御拝御座」に着座して父母の山陵(父母が健在の場合には省略)などの方向を拝礼する。それぞれ、玉体安穏・宝祚延長を祈った。また、江戸時代には、属星拝礼後に「嘱星御拝御座」において内侍所・伊勢神宮への拝礼が行われ、父母の御陵拝礼前に「山陵御拝御座」にて歴代天皇の山陵(対象は時期によって異なる)に対する拝礼が追加されたことも知られている。なお、伊勢神宮への拝礼に関しては院四方拝においては、後深草院以来の慣例であったとする『花園天皇日記』元応2年(1320年)元日条の記事があり、中世に院で行われたものが後に天皇の四方拝でも採用されたと考えられている。
この拝礼のとき、天皇は独特の言葉(呪文)を唱えた。それは『内裏儀式』・『江家次第』によると次の通りである。
.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}賊寇之中過度我身(ぞくこうしちゅうかどがしん)
毒魔之中過度我身(どくましちゅうかどがしん)
毒氣之中過度我身(どくけしちゅうかどがしん)
毀厄之中過度我身(きやくしちゅうかどがしん)
五危六害之中過度我身(ごきろくがいしちゅうかどがしん)
五兵六舌之中過度我身(ごへいろくぜつしちゅうかどがしん)
厭魅之中過度我身(えんみしちゅうかどがしん)
萬病除癒(まんびょうじょゆ)
所欲随心(しょよくずいしん)
急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)
なお、「五危」は「五厄」とする史料もある。
また明治時代以前の元旦四方拝の祭器具には「大宋御屏風」があったが、「大宋」とは中国南朝の「劉宋」のことであり、漢の天地を祭る皇帝祭祀である明堂祭祀が南朝の劉宋を経て日本に継承された品であると位置づけられること、元旦四方拝の天皇の礼服である黄櫨染御袍は「月令思想」の中央である土王「黄」を表しているとし古代中国の皇帝祭祀との関連も指摘されている[27]。
『内裏儀式』『西宮記』によれば正月元旦、鶏鳴の丑刻(午前二時)より東庭に屏風四帖が立てられ、属星を拝する座の前には燈明、各座の前には白木の机の上に香が焚かれ花が置かれ、寅の刻(午前三時)から行われてきた。祭儀次第は一、属星拝。二、天地四方拝。三、(父母)二陵拝。であったという[28]。 明治以後は、国学的観点から、道教の影響(北斗七星信仰や急々如律令などの呪文)は排除され、神道祭祀として再構成された上、国の行事として行われて四方節と呼ばれ、祝祭日の中の四大節の一つとされていた。
明治時代以後
明治時代以後の式次第
式に先だって、皇居・宮中三殿の付属施設である神嘉殿の南庭にあらかじめ仮屋を設け、中央に簾薦
第二次世界大戦中の昭和20年(1945)の元旦には、B29爆撃機の襲来を知らせる空襲警報が鳴ったが、昭和天皇は防空壕としていた御文庫前を臨時の斎場として四方拝を執り行った[29]。
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 上皇明仁の場合、曾祖父・明治天皇の伏見桃山陵、祖父・大正天皇の多摩陵、父・昭和天皇の武蔵野陵の三陵。