四字年号時代
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時代区分としては奈良時代後期に相当し、孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇(孝謙上皇の重祚)の3代の天皇の時期と重なる[1]
概説

男子の後継者に恵まれなかった聖武天皇は、皇女の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位したのと前後して出家し、政務の表舞台から退いた。同じ頃に陸奥国で黄金が発見されたことを記念して、初めての4文字年号である天平感宝が採用されている。女子である孝謙天皇の即位に際し、女帝として武周を建国した武則天が4文字年号(天冊万歳万歳登封万歳通天の3つ)を用いた例に倣って、天皇生母の光明皇太后が定めたとする指摘が、林陸朗らによりなされている[2]

孝謙天皇の治世は光明皇太后とその甥にあたる藤原仲麻呂が政務の実権を握り[注釈 1]、やがて孝謙天皇が仲麻呂の推挙した皇太子・大炊王(淳仁天皇)に譲位すると、仲麻呂が天皇の信任を背景に専権を振るった。しかし、孝謙上皇は次第に淳仁天皇・藤原仲麻呂と対立し、武力をもって仲麻呂政権を転覆すると淳仁天皇を廃位、自ら重祚を宣言した(称徳天皇)。称徳天皇は道鏡の補佐を受けて政務を行うが、孝謙天皇即位時からつきまとっていた皇位継承問題を解決することなく崩御した。その後、道鏡を朝廷から追放した群臣は聖武天皇の娘婿である白壁王(光仁天皇)を擁立すると、直後に新しい年号として宝亀を採用した。以降、4文字年号が用いられることはなくなった。

藤原仲麻呂政権と、それを軍事力で排除して成立した道鏡の政権も、王権の強化と儒教や仏教などを介して唐の政治・文化を積極的に取り入れていく方針については、大きくは変わらなかったと考えられている。また、墾田永年私財法に土地開発の奨励など天平の疫病大流行による人口減少によって荒廃した社会の立て直しが図られた時期でもあった[4]
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 太上天皇となった聖武上皇には孝謙天皇を後見する意思がなかったとみられている[3]

出典^ 吉川、2022年、P52-53.
^ 「なぜ奈良時代には四文字の元号があるのか?」(岡山県立図書館) - レファレンス協同データベース
^ 吉川、2022年、P52.
^ 吉川、2022年、P53.

参考文献

吉川真司『律令体制史研究』岩波書店、2022年
ISBN 9784000255844










日本の元号
注1:前の数字は番号。南北朝時代の「南」は南朝、「北」は北朝の元号を指す。慣例に従い南朝を正統とする。
注2:後の数字は元年と末年。源氏政権の「寿永」は元年でなく使用開始年を記し、「正平」は南北統一の年と再分裂の年、「観応」は復活の年、「明徳」は統一の年も記す。
注3:月日を含む換算では赤背景の西暦に1を加算する。
飛鳥時代

1 大化 645 - 650

2 白雉 650 - 654

-

3 朱鳥 686 - 686

-

4 大宝 701 - 704

5 慶雲 704 - 708

6 和銅 708 -

奈良時代

和銅 - 715

7 霊亀 715 - 717

8 養老 717 - 724

9 神亀 724 - 729

10 天平 729 - 749

四字元号

11 天平感宝 749

12 天平勝宝 749 - 757

13 天平宝字 757 - 765

14 天平神護 765 - 767

15 神護景雲 767 - 770



16 宝亀 770 - 781

17 天応 781 - 782

18 延暦 782 -

平安時代

延暦 - 806

19 大同 806 - 810

20 弘仁 810 - 824

21 天長 824 - 834

22 承和 834 - 848

23 嘉祥 848 - 851

24 仁寿 851 - 854

25 斉衡 854 - 857

26 天安 857 - 859

27 貞観 859 - 877

28 元慶 877 - 885

29 仁和 885 - 889

30 寛平 889 - 898

31 昌泰 898 - 901

32 延喜 901 - 923

33 延長 923 - 931

34 承平 931 - 938

35 天慶 938 - 947


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