四国八十八箇所
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それは、山門前で合掌礼拝一礼し、手水舎でお清めをしたのち[注釈 7]、表示などで可能であれば鐘楼堂にて梵鐘を一回突く(参拝後に突くことを「出鐘」と呼び、「出金」に通じること、さらに出鐘自体が死者を送る際に突く鐘と言われるため、参拝後には突かない)[4]。そして、本堂において燈明・線香賽銭奉納をして納札(おさめふだ、後述)を納める、また、写経を納めることもある。続いて般若心経本尊真言、大師宝号などの読経を行い、祈願する。次は大師堂に向い燈明・線香・賽銭奉納をして納札を納め、般若心経や大師宝号などの読経を行い、祈願する。なお、最近は唱える者は希になったが本堂では寺の御詠歌を、大師堂では弘法大師の御詠歌を唱える。

その後、境内にある納経所にて、持参した納経帳や掛軸白衣に、札番印、宝印、寺号印の計3種の朱印と、寺の名前や本尊の名前、本尊を表す梵字の種字などを墨書してもらい、各寺の本尊が描かれた御影(おみえ)を頂き、納経料を支払う。この一連の所作を納経という。なお、納経帳への納経は一人につき1冊で、同時に掛け軸も1幅、白衣も1着ずつであり、一日に一度限りである。当霊場を1度だけでなく何度も訪れる場合、同じ納経帳に何度も朱印してもらうのを「重ね」といい、毎回、帳面を新しくしてもどちらでもよいが、公認先達に申請する予定の者は重ねが好ましい[要出典]。白地に黒印字の御影は漏れなく頂けるが、カラー御影は、別途有料で販売している。また、弘法大師の50年ごとの生誕・入定や開創記念などで散華やカードの配付およびスタンプの押印が期間限定で行われる(詳細は下記の四国八十八箇所霊場会の項で)。最後は山門前にて合掌礼拝一礼し、次の札所へのお参りとなる。

八十八箇所を全て廻りきると「結願(けちがん)」となり、どの札所から初めてもよいので88番目の札所が結願寺となる。その証明書を任意(いずれも有料)で作ってくれる札所があり、88番の大窪寺と43番の明石寺では「結願」の証、75番の善通寺では「満願」の証、1番の霊山寺では「四国八十八ヶ所霊場満願之証」である。また、納経帳に、讃岐国分寺では「願行成満」、白峯寺では「大願成就」と記帳してもらえる。その後、お礼参りとして結願寺から高野山奥の院御廟に詣でて、全ての札所を参ることができたことを弘法大師に報告・感謝をして満願成就となる。これは特に定められたものでないものの、納経帳や掛軸に高野山奥の院の項があるので参拝して納経するのが一般的である。[要出典]さらに、東寺(教王護国寺)に足を伸ばせば「成満証」を希望により(有料)作ってもらえる。
歴史
修行の地・四国空海が修行した室戸岬の御厨人窟

古代から、都から遠く離れた四国は辺地(へじ・へぢ)と呼ばれていた。平安時代頃には修験者の修行の道であり、讃岐国に生まれた若き日の空海もその一人であったといわれている。空海の入定後、修行僧らが大師の足跡を辿って遍歴の旅を始めた。これが四国遍路の原型とされる。時代が経つにつれ、空海ゆかりの地に加え、修験道の修行地や足摺岬のような補陀洛渡海の出発点となった地などが加わり、四国全体を修行の場とみなすような修行を、修行僧や修験者が実行した。
四国遍路の成立

信仰上は、空海が42歳の厄年弘仁6年(815年)に四国霊場を開創したとされているが、史実ではない。ほかに、空海死後に弟子の真済(800-860年)が遺跡を巡拝したとあるが、伝承の域である。[要出典]その後、平安時代末期に『今昔物語集[注釈 8]や『梁塵秘抄[注釈 9]に四国辺地修行したことを記載する。聖宝(832-909年)や重源(1121-1206年)も四国で辺地修行をし、西行は1167年に崇徳上皇を祀った白峯御陵(白峯寺)参拝をしているが、成立している形跡はない。[要出典]鎌倉時代に入ると、道範(1178-1252年)が『南海流浪記』に、空海遺跡を参拝したことが書かれており、一遍(1239-1289年)も遺跡を廻ったことを記載する。これらは断片的で、全体としての成立がなされていないことを示している。室町時代になると僧侶の修行としての巡拝だったのが、庶民にも広がったと云われている。[5]なお、1350年前後に善通寺を再興した宥範が、また、道隆寺天皇寺の住職を務め四国の多くの社寺を復興した増吽(1366-1452年)が四国遍路の成立や88箇所の選定に関わっている可能性がある。[要出典]誰だったにしろ、弘法大師が88箇所を定めたと空海に仮託し、自らの名を残していない。[要出典]

「辺路」の初出は、弘安年間(1248-1288年)の醍醐寺文書で「四国邊路、三十三所諸国巡礼」と記されている[6][7]。また、80番国分寺には永正10年(1513年)年に記された「四国中辺路,同行只二人納申候」という墨書が残されている[8]

戦国時代長宗我部元親による四国平定の戦(1578年頃より)から豊臣秀吉軍による四国攻め(1585年)までの一連の戦で、阿波の札所16箇寺、伊予の札所8箇寺、讃岐の札所14箇寺[注釈 10]が壊滅的な影響を受けたことが伝えられ、それから、数十年後に訪れた澄禅承応2年(1653年)に巡拝した記録『四國辺路日記』[注釈 11]に、徳島の数箇所において、復興が遅れ「礎のみ残り」「小さな草堂」と表現される寺院でも札所であることから、戦国時代以前から札所として選ばれていたと思われる。[要出典]

江戸時代初期になると、賢明の寛永15年(1638年)に巡拝した記録『空性法親王四国霊場御巡行記』には、現在とほぼ同じ札所がほぼ同じ順番[注釈 12]で記されている。澄禅の日記(1653年巡拝)には、井戸寺からスタートしたものの[注釈 13]文中に「大師は阿波の北分十十ケ所、霊山寺を最初にして阿波土佐伊予讃岐と順に…」とあるように、番号こそ記載はないが、霊山寺が最初の札所であるのが慣例であったと見なされる。そして、澄禅が巡拝途中に阿波海部で『辺路札所ノ日記』[注釈 14]を購入しているが、それは、現存している元禄9年(1696年)に重版された『奉納四國中邊路之日記』[注釈 15]の先行版のことであるとみられ、札所番号こそ記載がないが、次の札所までの距離・本尊・御詠歌が88の項目の表として記載、澄禅が巡拝する以前から、既に八十八箇所が確定していたことがわかる。

その後、真念によって1687年出版された『四國邊路道指南(しこくへんろみちしるべ)』[注釈 16]には札所番号が記され、札所間の内容や本尊・寺の状況が端的に記されている。真念の情報により書かれた寂本の『四国遍礼霊場記』(1689年)は詳しく由緒が書かれ、境内状況が描かれた絵が載せられ、読み物としても興味深い。これらの本の流布により修行者が行っていた遍路が一般人にも開かれた。それまでは四国の辺々を歩いて回りながら修業をすることが意識されている巡礼から、ある決まった寺を参拝して回るということが四国遍路であるというふうに四国遍路のあり方が変わり、それが後の時代に引き継がれていった[10]。また、手の形の矢印で順路を示した遍路道の石造の道しるべも篤志家によってこの時期に設置され始めたといわれる。

1854年に発生した大震災(安政南海地震)とみられる要因により土佐17箇所[注釈 17]、翌年にはさらに宇和島藩南予4箇所に遍路入国禁止となり、伊予国の番外寺院で代理納経が行われる事態が起こっている。また、幕末の動乱で入国の制限が阿波で起きるなど[注釈 18]あったほか、明治初期には廃仏毀釈の影響を受けた。世情が安定してからは遍路入国禁止は解除[注釈 19]になり、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}明治5年以降は高知県の札所も納経が行われている。[要出典]


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