四国三郎
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だが、人口増加や天候不順に伴う飢饉の頻発、藩財政の逼迫等複合的要因から新田開発による年貢増徴を藩は図ろうとした。だが、実情は藩主導というよりは筑後川と同様に庄屋等の民間主導によるものである。1692年元禄5年)名東郡島田村庄屋・楠藤吉左衛門は島田村・蔵本村・庄村3か村の新田開発を図るため、旧佐吉川筋に幅10間 (18 m)・延長200間 (360 m) の用水路開削に着手した。だが藩からは規模の半分しか許可されなかったため、計画を縮小しての工事となった。1699年(元禄12年)完成した袋井用水は、その後も子の楠藤善平、孫の楠藤繁左衛門によって拡充され3か村数百町歩を潤した。なお藩から御褒美米30俵が下賜されたが吉左衛門は丁重に辞退している。

1752年宝暦2年)第十堰が完成している。当初は徳島城防衛のために第4代藩主・蜂須賀綱通が別宮川(現在の吉野川)を開削したが、その後の洪水で別宮川が本流となってしまい、吉野川本流(現在の旧吉野川)に水が流れなくなったため、水量調整と灌漑を目的として第十堰は完成した。一方、土佐藩領内の長岡郡では、家老野中兼山により地蔵寺川筋に新井堰を建設、そこから新井溝用水を開削・引水し長岡郡内の灌漑を図った。

その旧吉野川・今切川筋であるが、河口部において新田開発を目的とした干拓事業が行われていた。嚆矢となったのは17世紀中頃に大坂の豪商・三島泉斎によって着手された笹木開拓であるが、洪水や波浪によって事業は頓挫し泉斎は破産。その後数代を経て難工事は完成した。続く1783年天明3年)には伊澤亀三郎による開拓が行われた。これは大坂の豪商・鴻池家の援助により行われ、子の伊澤速蔵・孫の伊澤文三郎の3代に亘り笹木開拓地の北端・西端に石積み堤防を築き波浪・洪水を防止、開拓を成功させた。これを住吉新田と呼び現在でも伊澤家3代の遺徳が偲ばれている。さらに1804年文化元年)には坂東茂兵衛によって豊岡開拓が行われ、防潮・防風を目的に20万本の松を植林し築堤。今切川下流の新田開発を図った。この開拓は孫で今切川用水裁判人の役職に就いていた豊岡茘敦(れんとん)によって完成を見た。

こうして新田開発とそれに伴う利水事業は進められたが、総合的な灌漑は遅々として進まなかった。こうした中1850年嘉永3年)に後藤庄助が徳島藩勧農方に「吉野川筋用水存寄申上書」を提出、さらに1865年慶応元年)には庄野太郎が「芳川(吉野川)水利論」を著し、吉野川南岸用水の必要性を論じた。この計画は後の麻名用水事業に結実して行く。一方、豊岡茘敦も1874年明治7年)に「疎鑿迂言」を著し吉野川北岸部の用水整備と藍染依存からの転換を論じた。だが彼の意見が実現をみるには1990年(平成2年)の吉野川北岸用水事業の完成を待たねばならなかった。
明治期の河川開発?麻名用水と第十樋門?

明治時代に入り、近代河川技術が吉野川にも導入された。1884年(明治17年)に全国の河川整備に携わったヨハニス・デ・レーケは吉野川を視察。翌1885年(明治18年)より旧内務省徳島県の共同事業として「吉野川改修工事事業」が着工した。だが1888年(明治21年)7月の水害で流域は大きな被害を受け、原因を河川整備の不備・失策と見た住民は蜂起して工事事務所を襲撃し改修事業を中止に追い込んだ。この暴動を「覚円騒動」と呼び、以降河川改修は中断した。

一方利水に関しては1906年(明治39年)より麻名用水の建設が開始された。元来は麻植郡名西郡の農地開墾と藍染から稲作への転換を目的に、麻植郡郡長・井内恭太郎が中心となって1899年(明治32年)に「麻植・名西郡水利組合」を結成したことが発端である。だが藍染を生業とする業者や負担金分担に反対する者による激烈な反対運動で一時頓挫した。ところが1903年(明治36年)ドイツ製化学染料が輸入されたことにより藍染業者は大打撃を受け、翌明治37年の大旱魃も重なって用水開鑿の重要性がにわかにクローズアップされた。名西郡郡長に転出していた井内は用水建設の総指揮を執り、1912年(明治45年)に完成させた。さらに1914年大正3年)には用水機能補完のための飯尾川引水事業も完成。吉野川南岸の灌漑は飛躍的に整備された。

大正時代に入ると「覚円騒動」で中断していた治水事業も復活。吉野川各地に水刎水制であるケレップ水制が設置された。また、旧吉野川との分流点・第十堰付近には旧吉野川の洪水調節・河川維持用水を目的に1923年(大正12年)に第十樋門が建設された。当時日本一の樋門として吉野川の名所となり多くの見物客が訪れた。1926年(大正15年)5月8日、吉野川河川改修工事竣工式が徳島市外吉野河原で開催[10]。その後1927年昭和2年)に吉野川築堤は完成し第1期吉野川改修事業は完了した。この堤防はその後流域を襲った1934年(昭和9年)の室戸台風1945年(昭和20年)の枕崎台風、さらには吉野川最大の出水となった1954年(昭和29年)の台風12号、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風1961年(昭和36年)の第2室戸台風においても破堤せず洪水防御に役立った。
銅山川分水と利害の対立

一方、愛媛県宇摩地方(現在の四国中央市一帯)では慢性的な水不足を解消するため、銅山川からの分水計画・銅山川分水を安政年間より計画していた。1924年(大正13年)に宇摩郡疏水組合が結成され、翌年には「銅山川疏水事業期成同盟会」が結成されて、法皇山脈を貫く導水事業の早期完成を行政に促した。これを受け愛媛県は1928年(昭和3年)に柳瀬ダムを銅山川に計画して利水・発電を目論んだ。

1931年(昭和6年)に愛媛県と徳島県は「分水に関する仮協定覚書(第一次分水協定)」を締結したが、土居徳島県知事は事前に県会の承認を得る事を定めていた内務省令を無視し、勝手に覚書を交わしていた。これに徳島県会が猛反発した。また、内務省の担当者がダム計画の説明に県会を訪れたが、分水反対派の三木熊二県議に利水計画に対してダム容量が少なすぎることを指摘されたばかりか、住民説明会では、住民側から吉野川の想定流量が現実の値をかけ離れている事を指摘され、説明を求められると、鉄道乗車予定時刻を理由に退席しようとした。今夜の宿代と鉄道運賃を支払いを申し出て住民説明会の継続を求める住民側に対し、内務省担当者は強引に退席するという前代未聞の珍事に発展した。これらの内務省側の対応に激怒した徳島県会を見て、愛媛県側は一戸愛媛県知事と県議数名を代表とする交渉団を徳島県会に送り込み、単独交渉を開始したものの、覚書の順守を求める愛媛県側と新たに覚書を作り直すことを求める徳島県側が対立し、交渉は成立しなかった。

翌年には、徳島県会は三木熊二を中心とする反対派が大勢を占め、三木熊二は「分水問題とは分水嶺の遥か彼方に水を持って行こうとするものである。分水は愛媛の農民を助けることかもしれないが、分水のせいで徳島の農民が水不足にあえぐことは認められない。また、愛媛側が水を違法に得ようとした場合、下流の徳島側は絶対的に不利である。一度吉野川を離れた水は二度と戻らない。」と演説し、徳島県会は全会一致で分水反対を決議した。再度愛媛県側は交渉団を派遣したが、話は平行線のまま終わった。

結局は内閣側が調停に乗り出し、徳島県側は発電計画を中止する縮小案で妥協することを認め、1938年(昭和13年)1月31日に第一次分水協定が成立した。また折からの戦時体制で軍需省が発電事業への参入を決定。1945年(昭和20年)2月11日に発電用水を目的とする第二次分水協定が成立したが、混乱する中終戦を迎えることとなった。

戦後、愛媛県側は工事を再開しようとしたが、徳島県側は第二次分水協定は戦中の軍国主義体制の中、国策として制定されたものであり、協定内の下流放水量に問題があり、両県の協議も整っていないとして異論・反発が起こった。この結果、内務省、四国行政事務局などが間に入り、第一次分水協定と同量まで下流放水量まで増量することが決定し、これに加え柳瀬ダムに洪水調整目的も加えた多目的ダムとすることが決定され、1947年(昭和22年)3月1日第三次分水協定が締結された。その後、愛媛県より委託された建設省の手によって柳瀬ダムの工事が開始された。その後協議が繰り返され、1951年(昭和22年)3月23日に第四次分水協定を締結し、柳瀬ダムの堤高を53m以上と明記し、銅山川からの分水が柳瀬ダム完成前からでも可能という協定を徳島県側から得た。
銅山川違法水利事件

1956年、徳島県側から銅山川からの水量が少なく、愛媛県側が協定以上に銅山川から取水しているのではないかという意見が出始め、徳島県からは強い抗議と同時に愛媛県側が協定遵守するよう建設省に要求した。建設省側は調査の結果、暫定通水中の昭和26年から昭和31年までの間、愛媛県が通常取水してもよい水量(毎秒3.3トン)から大幅に高い量(毎秒5.8トン)を取水していることが判明した。このように愛媛県側が大量取水していた原因は2つあり、愛媛県側が発電用水の最大使用量を遥かに超え、過負荷運転時の水量を使用しての発電が常態化していたことと、発電用水と灌漑用水を別々と考えていた愛媛県側と、発電用水を使用した後の水は灌漑用水に使用すると考えていた徳島県側の齟齬があったことであった。この事態は、分水協定の齟齬と愛媛県側の伊予三島川之江(現:四国中央市)の工業用水の需要を満たすために行った違法利水であった。愛媛県側には建設省中国四国地方建設局から徳島県との協定を遵守するよう強い指導があり、徳島県と愛媛県間の損害賠償問題へと発展した。しかし、愛媛県側は一度は協定どおりに従ったものの、伊予三島川之江地区の水資源枯渇は深刻であり、愛媛県側は建設省に同地区でも銅山川分水の工業用水を使用したいと願い出、徳島県との交渉の斡旋を要望した。当時、徳島県では愛媛県が引き起こした協定違反に対して険悪な感情が湧き上がっており、直接交渉はほぼ不可能な状態であった。建設省と両県の交渉は、以前の協定の遵守を強硬に主張する徳島県側と工業用水の取水を行いたい愛媛県側で平行線をたどったが、建設省中国四国地方建設局長が間に入り、以下の3点で合意することに成功した。(第五次分水協定)

今後、愛媛県が違法取水しないように分水取水口は建設省中国四国地方建設局が管理を行う。

無駄に消費されている年間2千万トンの水を有効利用する。

分水協定を改定し、伊予三島川之江地区に分水を供給する

この第五次分水協定により柳瀬ダムの分水は細かく定められ、吉野川の岩津地区の水位と銅山川流量によって、その日の放水量を決定されるようになった。また、一連の違法利水問題が原因で、当時徳島県知事であった原菊太郎は「今後一切分水する事まかりならん」と公言し、徳島県は当時持ち上がっていた吉野川総合開発事業から分水計画を外すように求めるようになり、吉野川総合開発事業が徳島の反対で遅れることとなった。
吉野川総合開発事業


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