フランスがルーズベルト米大統領の構想から除外されていたのはヴィシー政権の存在があった。後にチャーチル英首相が一貫してシャルル・ド・ゴール将軍下のフランスを擁護した。アメリカがフランスを大国として処遇する意思はなく[12]、戦後における大国としての地位を認めないとする点で一致した政策路線をもっていた[13]。この背景には1941年12月のサンピエール島・ミクロン島占拠事件におけるド・ゴールに対する強い不信感があった[13]。
1943年3月27日のルーズベルト米大統領と英外相アンソニー・イーデンとのワシントン会談において、大統領側は戦後の国際機構は最終的に米英ソ中が実質的決定を行うのであり、この4カ国は長きに渡って世界の治安維持に責任を負わねばならなくなる国であると述べている[12]。1943年のテヘラン会談の際にスターリンはフランスへの全面的な不信感を口にし、フランスから帝国を取り上げるべきだと発言し、この考えはかねてからルーズベルトが考えていたことであった[12]。チャーチルはヨーロッパには強いフランスが必要であり、またそもそも全ての植民地を国際的な信託統治へ移行させようとするルーズベルトの企みに道を作ってしまうものと警戒していた[12]。1944年8月21日?10月9日のダンバートン・オークス会議で、四大国と並んでフランスを安保理常任理事国とすることが合意された[12]。
文献情報
「F.D.ルーズベルトの中国政策:第2次大戦期を中心として」滝田賢治『一橋研究』(1975年12月)[3]