嘉門達夫
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1992年末の『第43回NHK紅白歌合戦』に「替え唄メドレー?紅白バージョン」で紅白初出場を果たした[3]。また、1993年には日本武道館での公演も行った[3]

1997年、ビクターから代プロの自社ブランド「DAIPRO-X」にレコード会社を移り、移籍第1弾「新・替え唄メドレー」を発売した。

2001年、トレードマークのオールバックを黒髪から金髪へとイメージチェンジした。同時期にジョギングをして体重も13kg絞った。

2002年発売の『ガッツ石松伝説』[注 4]や同じく2003年の『明るい未来』など、話題作を続けて発表[3]。2003年4月、デビュー20周年記念アルバム『達人伝説』を発売。同年6月には初のDVDメディア作品『達人伝説』を発売。また2005年には、東京都立翔陽高等学校校歌「はばたけ!未来へ」の作詞と作曲を担当した。

2009年9月、所属の代官山プロダクションが倒産し、個人事務所「さくら咲く」を設立して独立した。この頃よりギターをTakamineから、K.Yairiのカスタムメイドギターへ変えている。

2013年7月、芸能生活30周年を記念して万博記念公園で「真夏のカモン!EXPO!歌と笑いと食のワンダーランド」を開催した。明石家さんま桂雀々北野誠ワハハ本舗久本雅美梅垣義明スターダストレビューきたやまおさむ押尾コータローET-KINGら芸人や歌手仲間が多数出演した。

2017年3月25日、58歳の誕生日より、名前の部分を片仮名にした“嘉門 タツオ”に改名している[7]

2022年8月5日、急性膵炎で緊急入院[8]。15日、退院[8]。27日、東京・目黒のブルース・アレイ・ジャパンで行われた「39(サンキュー)ライブツアー 2022夏」で復帰[9]

2023年1月後半、飲酒運転事故を起こしたため、同月以降はレギュラーラジオ番組の終了や、予定されていたライブ等の活動を休止した[10]。4月18日に自身の公式サイトを通じて免許取消の行政処分を受けたことを明かし、今後、免許の再取得はしないと宣言した[11]

2024年2月10日、65歳の誕生日にあたる同年3月25日にライブを開催し活動再開することを発表[12]。3月25日、ライブ「反省と叱咤の会」を行い、活動を再開させた[13]
エピソード
子供時代

旭屋書店に務める父、母のもとに長男として生まれ、妹と弟がいる[3]。10歳の頃、ザ・フォーク・クルセダーズの楽曲『帰って来たヨッパライ』の世界観に影響を受け、音楽に目覚めた[3]。小学校6年時にラジオを買ってもらい深夜放送に熱中するようになる。中学生になると先述の笑福亭鶴光のラジオ番組『MBSヤングタウン』のハガキ投稿者となり、3枚に1枚は読まれる常連となった。この頃から「ラジオで喋ったりする人になりたいなぁ」と漠然とではあるが考え出す。

中学2年生になると親戚よりクラシックギターを譲り受け、ギターの練習を始める。最初に弾いた曲は「瀬戸の花嫁」。翌年の正月にお年玉の17,000円でSONOROのアコースティックギターを購入。また友人(中沢君)とオリジナル曲の制作も始める。初めて作ったオリジナル曲は「小さなすみれの物語」。しかしそれより以前に「空飛ぶロッキーくん」という楽曲を作り、それが初めて作った曲だとも発言している[14]フォークデュオの「あのねのね」に影響を受け、カセットテープレコーダーを用いてテープに自作曲の録音に熱中する。前述の友人(中沢君)とともにアルバム・カセットを製作する。中学高校時代で60曲の楽曲を制作する。
鶴光に弟子入り

高校在学中の16歳の頃、落語家笑福亭鶴光に弟子入りを志願しようと放送局の楽屋口へ訪れるも言い出せずにいた。その後、意を決して友人二人(高倉君、炭窯君)とともに千里セルシーでのテレビの公開録画を終えた鶴光が乗る車を、友人のバイクの後ろに乗せてもらって追跡した[注 5]。当時、大阪の南森町にあった読売テレビの前に横付けされ車から降りてきた鶴光に駆け寄り、弟子入りを申し出た。当時27歳の鶴光は「そぉーかー。じゃあ一回、親連れといでぇ」と電話番号を書いたメモを手渡した。そして後日、母親とともに鶴光の自宅を訪れ入門することとなった。

弟子入り以降は、在学中であることから毎週土日[3]や平日の放課後に師匠の家に通う「通い弟子」を務め、家事や雑務をこなした[3]。高校卒業後は鶴光邸へ住み込み、兄弟子の學光とともに内弟子となった。19歳でレギュラー出演した『ヤンタン水曜日』では、『笑光の涙の内弟子日記』というコーナーを持たせてもらい、弟子修行の辛さをネタにした弾き語りがリスナーに受けた[3]。先述の鶴光から破門された理由にはもう一つ、“当時、若気の至りで鶴光の妻に反抗的な態度を取り続けた”というものもあった[3]
放浪の旅

日本放浪の旅に出たきっかけは、破門直後に一門の先輩(叔父弟子)である笑福亭鶴瓶から「人生経験を積むために旅に出ろ」とアドバイスを受けたことである[15]。日本放浪の旅は、まず能登半島を経由し佐渡島へと渡った後、あのねのねを頼って一旦東京へ向かった。あのねのねのライブにゲスト出演させてもらい、その夜の打ち上げで北へ向かうことを宣言し、二人から餞別を受け取り北海道へと向かった。道内では利尻島礼文島ヒッチハイクで周り、約40日ほど経ったころ大阪へと戻る。

その後、北志賀竜王高原「ホワイト・イン・北志賀」で冬季のアルバイトをするため信州へと向かう。そこでは夜ごとパーティが行われ、何かやるよう声がかかった。中高生時代の曲作り、5年間の弟子生活での経験を活かし、現在のスタイルへと繋がる楽曲製作を始める。このことにより歌手になろうと決意する。スキー場や翌年の夏には与論島でアルバイトをしながら[3]コミックソングの面白さを認識した。
桑田佳祐との関わり

1981年、日本放浪の旅を終えて大阪に戻ると、ヤンタンの初代プロデューサーである渡邊一雄の勧めで[15]「次は海外へ放浪しようか」と考え、渡航資金を貯めるためアルバイトをしていた。そんな中、先のスキー場で作った曲がアミューズ大里洋吉会長に評価されたことから、当時開設されたばかりのアミューズの大阪事務所で働くことになった[3]

同事務所社員として、関西地区の有線ラジオなどへ[4]サザンオールスターズの新曲「チャコの海岸物語」の売り込みを担当[注 6]。プロモーション活動に奔走した結果、同曲のヒットによりプロモーターとして評価され、この縁でサザンの桑田佳祐と親しくなった[3]。サザンが関西でコンサートをする時の打ち上げなどに参加したり[4]、桑田の別働バンド「嘉門雄三&VICTOR WHEELS」の前座で10分間、歌手として出番を与えられるなどした[3]、。

桑田に自らの芸名を考えてほしいと依頼する[注 7]と、彼から「カメリア・ダイヤモンドという芸名はどうか?」と提案された[4]。しかし嘉門が拒否したため、桑田が別の活動時に使用していた「嘉門雄三」の苗字を譲り受け、以降、“嘉門達夫”を名乗ることになった[4]


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