嘉吉の乱
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)が出家、8月には護聖院宮家の2人の王子(金蔵主通蔵主)が喝食となり、護聖院宮家は絶家となっている[注釈 1]

伏見宮貞成親王はこうした義教の統治期を「薄氷を踏むの時節(踏薄氷時節)」(『看聞御記』永享3年3月24日条)と表現し、比叡山炎上の噂話を禁じた際の記述「万人恐怖」(『看聞御記』永享7年2月8日条)は義教の統治期を物語る象徴的フレーズとなっている[4]
満祐の隠居

この頃、幕府の最長老格となっていた赤松満祐は義教に疎まれる様になっており、永享9年(1437年)には播磨、美作の所領を没収されるとの噂が流れている。義教は赤松氏庶流の赤松貞村(持貞の甥)を寵愛し、永享12年(1440年)3月に摂津赤松義雅(満祐の弟)の所領を没収して貞村に与えてしまった。

このため、5月頃に満祐は病気と称して出仕しなくなった[5][6]。 同じ頃、大和出陣中の守護・一色義貫土岐持頼が義教の命により誅殺された(大和永享の乱[7][6]。満祐は出仕しなくなったため、9月22日に侍所別当の職を罷免させられた。

義教と満祐の不和に関しては、以下のような説がある。満祐は弟の中でも乱暴者で知られた則繁と特に仲が良く、満祐は常に則繁を伴って行動していた。かつて、則繁が細川邸で暴挙に及び、将軍の義持から切腹命令が出ても、満祐は弟をかばったとされており、このため、義持・義教の2代にわたって満祐は信頼されず、むしろ温和で有能な庶流家が厚遇されたという[8]

嘉吉元年(1441年)4月、持氏の遺児の春王丸安王丸を擁して関東で挙兵し、1年以上にわたって籠城していた結城氏朝結城城が陥落した(結城合戦)。捕えられた春王丸、安王丸兄弟は、護送途中の美濃垂井宿で斬首される。これより先の3月、出奔して大和で挙兵し、敗れて遠く日向へ逃れていた義教の弟の大覚寺義昭島津忠国に殺害されており、義教の当面の敵はみな消えたことになった。
乱の経過
将軍の暗殺まで

『蔭涼軒日録』によると、6月14日に、義教の肝いりの政策として行った、高さ四丈(約12m)の阿弥陀如来の大仏を安置する雲居寺の再建が完了したので、義教は視察のため雲居寺を訪れたとある[9]

6月18日、義教から家督介入の圧力を受けた富樫教家が逐電、弟の泰高が後を継いだ。23日には吉良持助が出奔している。

6月24日、満祐の子の教康は、結城合戦の祝勝の宴として松囃子(赤松囃子・赤松氏伝統の演能)を献上したいと称し、西洞院二条にある邸へ義教を招いた[10]。『嘉吉記』によると、「の子沢山出来」と招いたという。

この宴に相伴した大名は管領細川持之畠山持永山名持豊一色教親細川持常大内持世京極高数山名熙貴細川持春、赤松貞村で、義教の介入によって家督を相続した者たちであった。他に公家正親町三条実雅正親町三条公治の父、義教の正室正親町三条尹子の兄)らも随行している。

一同が猿楽を観賞していた時、にわかにが放たれ、奥の方から鈍く轟く音が聞こえた。義教は「何事ぞ」とつぶやき、傍らに座していた正親町三条実雅は「雷鳴でありましょう」と答えた[10]。その直後、障子が開け放たれるや甲冑を着た武者数十人が宴の座敷に乱入し、義教を斬殺した。義教の首を刎ねたのは、安積行秀と伝えられる。

酒宴の席は血の海となり、居並ぶ守護大名・近習達の多くは即座に退出した[注釈 2][10]。抵抗をしたのは、守護大名大内持世、京極高数、近習の細川持春山名熙貴、走衆の遠山某、公家正親町三条実雅のみであったとされる[10]山名熙貴京極高数即死、大内持世も瀕死の重傷を負い、後日死去した。細川持春は片腕を斬り落とされ、正親町三条実雅は、献上された太刀をつかみ刃向うが、切られて卒倒している[10]。庭先に控えていた将軍警護の走衆と赤松氏の武者とが斬り合いになり、塀によじ登って逃げようとする諸大名たちで屋敷は修羅場と化した。そして、赤松氏の家臣が、将軍を討つことが本願であり、他の者に危害を加える意思はない旨を告げたことで騒ぎは収まり、負傷者を運び出し、諸大名は退出した。

貞成親王は『看聞日記』において、「赤松討たるべき御企て露見の間、遮って討ち申す(赤松を討とうとして、露見して逆に討たれてしまったそうだ。


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