喜味こいし
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漫才こそ行なわなかったが、蝿取り(手ぬぐいを頬被りし、蝿に扮して座布団を蝿取紙に見立てとらえられる余芸、元は立花家扇遊佐賀家喜昇が演じた)の芸を上方演芸ホールで演じた。晩年は白髭を蓄えて好々爺の外見になっていた。

俳優としても活動しており、「夫婦善哉」他多数の舞台に立っていた。

所属事務所は、デビュー当時は吉本興業であったが、戦後フリーになり、秋田實の宝塚新芸座から上方演芸を経て、東宝芸能関西に所属する。東宝入りは南都雄二の斡旋によるものであり、当時の所属タレントはいとしこいしだけだったという。この事務所は大宝芸能から大宝企画となるが、いとしの逝去を機に会社を清算。このため2006年10月からは和光プロダクションの所属となっている。

1977年に膀胱ガンを患い、人工膀胱保有者(オストメイト)となった。2008年11月に大阪で行われた「第1回関西オストメイトの集い」にて自らの体験を語っている。

2010年1月、肺がんであることが判明。入退院を繰り返していたが、2011年1月23日、肺がん(小細胞がん)のため大阪市内の病院で死去、83歳没。最期は家族とマネジャーが看取った。2010年12月に収録されたNHK大阪放送局上方演芸ホール」が最後のテレビ出演となった。

死後、三代目桂米朝や桂三枝(現・六代目桂文枝)、西川きよし藤本義一浜村淳らが追悼のコメントを公表した。

葬儀は1月27日、大阪市阿倍野区の葬儀場で営まれ、桂三枝(現・六代目桂文枝)、西川きよし、三代目桂南光らが参列、弔辞はかしまし娘正司歌江が読み上げ、いとし・こいしの出囃子であった「おいとこ」が流れる中、出棺された。前日(1月26日)に営まれた通夜には上岡龍太郎坂田利夫桂きん枝月亭八方オール阪神・巨人中田カウス・ボタン横山たかし・ひろし酒井くにお・とおる海原はるか・かなたぼんちおさむら上方芸能人が多数参列し、偉大なる上方芸人の別れを惜しんだ。

また、NHK大阪と朝日放送、関西テレビ、毎日放送は、追悼特別番組を放送した。
漫才

こいしは男前の容姿と独特のガラガラ声で、兄いとしのひょうひょうとして洗練されたボケに鋭く突っ込んでいく様が絶品であった。ツッコミが一般にボケを叱る、という態度をとることからよく「怒る・怒り顔」というイメージがあり、下手にすると流れを止めてしまうことがあるが、彼の場合は自然な笑顔で「もしもし...」とやり、ネタの流れを止めるどころかいとしのボケに潤滑油を差す役割になることから、そのツッコミは名人芸とされる。「ほうほう」「それでどないしたんや」などテンポのいい合いの手で、いとしのボケに繋げるテクニックも秀逸である。

基本的にいとしがボケでこいしがツッコミだが、戦後しばらくいとしがツッコミでこいしがボケの時期があり、後年も両者はまれにボケ・ツッコミを入れ替わるという離れ業ができた。ちなみに中田ダイマル・ラケットもそうであったように、ネタの上で兄弟であることを明かすことはほとんどなかった(ただし例外的に「じーっと考えたら君と僕は兄弟や」というネタもあった)。代表作としては「交通巡査」「親子丼」「こいしさんこいしさん」「もしもし鈴木です」「ジンギスカン」などがある。

こいしが序盤に、いとしに対し「なぁなぁ、君んとこの嫁はん元気か?」というネタフリから本編に入るパターンが定番であった。逆にいとしが「鬼瓦で思い出したが君んとこの嫁はん元気か?」と聞くパターンがある。こいしの妻はしばしば恐ろしい形相の物に例えられるが、実際は美人である。

ネタの一例話者台詞話者
いとしボク、こないだ単車買いましてん。
ほうほう。こいし
いとしあれは便利なもんですな。
そうやねえ、なんちゅうても小回りが利く。こいし
いとしこないだも御堂筋を甘い?甘い?いうて、そら楽やったで。
ちょっと待て、甘い甘いてどんな単車や。こいし
いとしん?甘い?甘い?っちゅうて…あ!スイ?っとスイ?っとやったわ。
アホか!こいし

出演作品
テレビドラマ

ハイ!次の方(1964年、よみうりテレビ

エプロンおばさん 第2期日本テレビ

第16話「温泉日記の巻」(1967年)

第17話「続・温泉日記の巻」(1967年)


連続テレビ小説(NHK)

鮎のうた(1979年)

ほんまもん(2001年)[4]


水戸黄門TBS / C.A.L

第1部 第17話「人情喧嘩そば -岡山-」(1969年11月24日)- 法印 役

第13部 第5話「ドジな息子の泥棒修業 -清水-」(1982年11月15日) - 居酒屋の亭主役

第16部 第37話「初春献上二人彫 -日光-」(1987年1月5日) - 番頭


連続アクチュアルドラマ・部長刑事 第1467話「空巣の子守唄」(1986年12月13日、朝日放送)

土曜ドラマ(NHK)

大阪ドン・キホーテ(1981年) - 山岡 役


裸の大将 第46話「清と獅子舞てんてこ舞」(1991年、関西テレビ) - 若狭二郎 役(夢路いとしと共に漫才の師匠)

テレビバラエティ

痛快!エブリデイ 「こんとい亭」(2007年[5]、関西テレビ)

映画

コンビでの出演は夢路いとし・喜味こいしを参照。

首なし島の花嫁 (1961年)

第三の悪名(1963年)

星影のワルツ 2007年 写真家若木信吾の祖父・琢次役(主演)

子猫の涙 メキシコオリンピックボクシング銅メダリスト森岡栄治の父・作次郎役 2008年1月公開

ホノカアボーイ 2009年

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オリエンタル「マースカレー」(兄弟で出演)

KINCHO「ムカデキンチョール」「コックローチS」ほか殺虫剤全般(兄弟で出演)

カルビーかっぱえびせん」(兄弟で声の出演)

なとり「君恋し」(兄弟で出演)

読売新聞(2007年)[6]

書籍

浮世はいとし人情こいし(著:夢路いとし・喜味こいし、
中央公論新社ISBN 4120033260

いとしこいし 漫才の世界(編:戸田学岩波書店ISBN 4000221434

いとしこいし想い出がたり(聞き手:戸田学、岩波書店、ISBN 4000221647

また、『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』(著:桂米朝上岡龍太郎朝日新聞社ISBN 4022575220)の「第二部 夢路いとし・喜味こいしさんを巡る上方漫才史」に登場、夢路いとしとともに4人で座談を繰り広げている。
広島での被爆体験

1945年8月6日、少年兵に志願し広島市内で教育を受けていたこいしは広島城付近(現在の同市中区白島)の陸軍兵舎2階で褌一丁で朝食を摂っていた際、広島市への原子爆弾投下に遭遇し被爆する。閃光が見えた時とっさに階下まで避難したが、建物が一部崩壊したため梁の下敷きとなり腹部を強打し気を失った[2]爆心地から近い地点、しかも殆ど裸同然の姿であったにもかかわらず奇跡的に大きな外傷はなかった)。7時間後に目を覚まし手を動かしたことで救出されたが、その後似島(現・南区)の陸軍病院まで運ばれる最中、市街地での惨状を目の当たりにした[2]。こいしはこの病院で終戦を迎え、その2週間後、両親や兄・いとし(徴用解除により帰郷していた)が住む大阪のアパートに帰り着いた[2]。原爆投下により『広島全滅』との報道を聞いた家族は、こいしが既に死亡していると考え、位牌が作られていたという[2]


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