善隣学生会館事件
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事件発生後、歴史学者の井上清は、1967年3月6日に開かれた集会で、日本共産党の行為を「日本に今復活しつつあるところの軍国主義思想、排外主義の軍国主義思想を煽動し助長するもの」であると批判し、強く抗議した[18]

3月13日に、井上清、水上勉滝沢修杉村春子など、35名の文化人が「日本共産党・日本民主青年同盟」を批判する声明を発表した[19]。ただし、35氏の中に含まれていた東山千栄子は、この声明について「私は関知しない」「名前を連ねる意思はない」と発言した[20]

部落問題朝鮮問題などの論客で知られていた寺尾五郎は、この事件を『日中不戦の思想』という著書において採り上げ、華僑寮生側を擁護した。

大学で井上清の1年先輩であった林健太郎は、読売新聞のコラムで、「少なくとも一階の日中友好協会事務所前の乱闘事件については、中共側が攻撃者であったことはまちがいないようである。」[21]として、日本共産党を擁護した。
和解による日中友好協会の退去

財団法人善隣学生会館は、1967年11月に、日中友好協会に退去を求める訴訟を提起した[22]。その退去要求の理由は、次のようなものであった。
財団法人善隣学生館の寄付行為の規定により、財団法人善隣学生館の本来の目的である中国人学生寮および中国文化センターとして、この建物を使用すべきところ、さまざまな条件(原資の不足、中国との正式な学生交換がないことなど)のために、この本来の使用のために建物を使用できない状態が生じたため、一時的に当建物の一部を賃貸している。したがって、日中友好協会との賃貸借契約は、(仮に存在するとしても)財団法人善隣学生会館が建物の本来の使用のために、この契約を解約する必要が生じた場合には、無条件にそれに応じるという特約の付された契約である。

(日本中国友好協会が同建物を事務所として賃借するようになった経緯について触れた後)これは日中友好協会が分裂する前に同協会の申し出により承認されたもので、同協会が日中関係13団体を代表し、寮生の推薦と保証を行う東京華僑総会と協力して、中国文化センターとして運営するという目的で、善隣学生会館の部屋を賃借し、その運営にあたるというのが建物の賃貸借の主目的であり、日中友好協会の事務所としての使用は、主目的に付随する目的でしかない。

しかるに、1966年の日中友好協会分裂後、日中関係13団体のうち、4団体は解散し、残りの8団体は日中友好協会正統本部を支持するようになり、同協会は日中関係13団体の代表者であることができなくなっている。

また、東京華僑総会との関係についても、協力関係は不可能になっており、この結果、同協会はその賃貸借の主目的たる中国文化センターの運営を行うことはできなくなっている。

1967年2月28日以降の善隣学生会館流血事件以降、同協会は多数の部外者を、同会館内の占有している部屋に起居させ、昼間においても多数の部外者を室内に立ち入らせているが、これは、華僑学生との紛争の理由にかかわらず、使用目的たる中国文化センター及び付属事務所、倉庫、並びに事務所としての用法に著しく違反している。

善隣学生会館では1967年3月2日以降、日本共産党側と華僑学生及びその支援者がそれぞれに人員を泊り込ませて対峙していた。この状態は、上記訴訟の和解が1970年7月15日に成立し、日中友好協会が事務所を移転するまで継続した。和解条件は、次のようなものだった[23]
被告は原告に対し、善隣学生会館に関する賃貸借契約が昭和45年7月15日限り、専ら原告の自己使用に基く解約により終了したことを認め、1970年9月末日限り、本件建物を明け渡す。原告は、原告管理下の、善隣学生会館内でおきた暴力事件について、管理者として遺憾の意を表する。

原告は被告に対し、昭和42年3月1日以降本日までの賃料等一切の金員の支払を免除する。

原告は被告に対し、本日以降、昭和45年9月末日までの間、明け渡し猶予期間として、被告が本件建物を無料で使用占有することを認め、その間、被告が使用占有部分を平穏に使用できるよう、警備員を配置する等、会館内の平穏なる秩序維持に努める。

原告は被告に対し、立退料及び示談金として、本日和解成立時に金110万円、及び前期第1項記載の明渡完了と同時に金100万円を各々支払うものとする。

原告は、前記第一項の趣旨に慮み、被告明渡後、本件建物を原告自ら行う事業に専ら使用することを表明する。

原告はその余の請求を放棄する。

原告・被告は互いに本和解条項以外に何らの債権債務のないことを確認する。

訴訟費用は各自弁。

その後

日本共産党と中国共産党は1960年代以降、関係が断絶していたが、日中国交回復から25年たった1997年9月17日に、朝日新聞社が主催した国交正常化二十五周年記念特別講演会で、張香山前中日友好協会副会長らが講演し、このときに中国共産党と日本共産党の関係改善について問われた張は、1966年を振り返り、「当時の我々には誤りの方が多かった」と語った[24]。翌1998年6月に、両党の関係が正常化された[25]

分裂した日中友好協会は、再統一されることなく、別組織のまま、現在に至っている。日中友好協会(正統)本部は、会員が過激な反戦運動や反政府運動に参加し、再分裂や統合などを経て[26]、現在は公益社団法人日中友好協会として存続している。2000年に協会が出版した書物[27]では、同事件について、日本共産党の動員部隊が中国人学生を襲撃した事件であると紹介している。2021年2月現在の協会のホームページ「協会の歩み」欄に[28]、この事件に関する記述は見られない。

日本共産党側の日中友好協会と中国との関係は断絶していたが、現在では中国は両方の組織との交流を行っている。同協会は2017年4月15日に「善隣学生会館襲撃事件50周年に当たって」という声明を発表して、自分たちが襲撃されたという主張を繰り返している[29]
脚注
注釈^ 日中友好協会は1966年に中国共産党を支持する主流派(後の公益社団法人日本中国友好協会)と日本共産党配下の非主流派とで組織が分裂し、事件当時は「日中友好協会」を名乗る団体が2つ並立していた。本事件の当事者となった「日中友好協会」は非主流派側の団体である。
^ 日本が中華人民共和国と国交を成立させるという意味。当時、日本政府台湾中華民国国家承認し、「中華民国政府が中国全体を代表する政権である」とする中華民国側の主張を受け入れていた。だが、中華人民共和国政府が中国を代表する政権なので、中華人民共和国との国交を成立すべきであるとする運動が日本国内であり、その中心団体が、日中友好協会だった。
^ 当時、日本は台湾の中華民国を中国の代表政権としていて、中華人民共和国との国交はなかったので、中華人民共和国からの留学生はいなかった。また、後楽寮は台湾からの留学生寮としては使用されていなかった。
^ 日中友好協会は日本と1949年に成立した中華人民共和国との友好関係の促進を目的として、1950年に成立した団体だが、台湾の中華民国政府を中国の代表政権として承認し、中華人民共和国を敵視していたアメリカ合衆国に追随する日本政府によって、警察の監視対象になっていた。組織には多数の日本共産党員が参加していたが、日中共産党の対立後、中国との関係を維持することを重視した会員が、1966年10月に日中友好協会(正統)本部を設立し、別に事務所を設置したことにより、同協会は分裂した。
^ 日本共産党は、ベトナム侵略反対の国際統一戦線の結成を願って、1966年2月に、ベトナム、中国、朝鮮の三カ国の共産党、労働党と会談するために、宮本顕治書記長(当時)を団長とする大型の代表団を送った。中国共産党との共同コミュニケの策定では、ソ連の評価についての溝が大きく、作成した文章は当り障りないものになったが、これについて最終的に毛沢東主席が反対し、共同声明を発表することができなかった。代表団の帰国後、日本共産党は中国共産党に対立する姿勢を強め、中国との関係が深い党員の除名などが行われた。日本共産党の配下にある日中友好協会もこの姿勢に同調した。
^ 一、第一回日中青年大交流の記録映画「団結こそ力」の上映阻止、二、中国青年代表団訪日阻止、三、青年大交流の阻止、五、中国経済貿易展覧会妨害破壊活動、六、中国関係の図書の頒布の妨害など

出典^ 池井優『北京と代々木の間?中国と日本共産党?』(慶應通信石川忠雄教授還暦記念論文集 現代中国と世界』所収)
^ 日本中国友好協会『日中友好運動のあゆみ』
^ a b 光岡玄「善隣学生会館流血事件の意味するもの」、中国研究月報1967年3月号、中国研究所 ⇒[1]
^ 宮本顕治「毛沢東との最後の会談(『週刊朝日』昭和52年6月24日号)」 ⇒[2]
^ 中日友好の破壊者は誰か「華僑報1967年1月1日」 ⇒[3]
^ 日中友好協会(正統)本部、「日中友好運動の刷新についての声明」、1966年10月26日
^ 善隣学生会館 中国留日学生後楽寮自治会「日共修正主義グループの華僑青年学生に対する襲撃事件の真相」 ⇒[4]
^ 1967年3月6日に、都市センターホールで開かれた「日共反中国暴徒による中国人学生襲撃事件の真相報告会」での、井上清氏のあいさつ、中国研究月報1967年3月号 ⇒[5]
^ 日本共産党中央委員会幹部会員候補内野竹千代・高原晋一、参議院議員岩間正男衆議院議員松本善明東京都議会議員梅津四郎ら


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