啓蒙時代
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イングランドではジョゼフ・アディソンの文芸批評誌『タトラー(英語版)』、『スペクテイター』などが発行され[4]、イングランド内外で広く読まれ、文芸および美術批評に影響を与えた。フランス王立絵画彫刻アカデミーがルーヴル宮殿で不定期に行った会員の展覧会、通称サロンとその紹介および批評であるディドロの『サロン評』もまたこの時代の美術思想へ大きく影響した。しかしもっとも深甚な影響を与えたのはヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの『ギリシア美術批評論』『古代人模倣論』であろう。これはルネサンス期にジョルジョ・ヴァザーリが提唱した古代を最上視する歴史観を提唱しつつ、古代の作品の可視的な形式ではなく、その形式に結晶した古代人の精神、すなわち「古代の自然(本性)」を模倣とすることを提唱した。この著作は絶対主義王権のもとで次第に社会的規制が強化されていく西ヨーロッパ社会において、多国語に翻訳され、広範な感激を呼び起こした。

またヴィンケルマンは、ルネサンス、バロックの時代には、ほぼ同一視されていた古代を、ギリシアとその模倣であるローマに分けることを提唱し、ギリシア人の精神のみが範例とされるべきであると主張した。

一部の研究者は、この区分を自らをローマ帝国の精神的後継者とみなしていたフランス宮廷とその文化に対する批判であるとみなし、またルソーとともにヴィンケルマンを、フランス革命に至る旧体制への批判の先駆者とみなしている。

啓蒙時代のフィロゾーフ(哲学者)たちは宗教を理性のもとで理解しようとする傾向があり、理神論的な考え方が強くなった[5]。宗教的寛容は重視され、この考えはやがて思想の自由言論の自由へとつながっていった[6]。一方で宗教的寛容の重視はカトリックプロテスタントを問わず宗教界からの敵意を招き[7]、こうした保守的な聖職者たちは反啓蒙(英語版)の中核をなした[8]
交流の増大

この時期に長距離の国際貿易はより一層発展し、やアメリカ大陸など遠隔地の物品がヨーロッパに流れ込むようになった。遠隔地との交易を担当するハドソン湾会社オランダ東インド会社イギリス東インド会社のような勅許会社が多数設立され、流入する物品は他地域への興味を増大させた[9]。特に中国をはじめとする東アジア地域との交流の拡大は、シノワズリと呼ばれる中国趣味の美術様式を生み出し、ロココとも結びついてヨーロッパの美術に大きな影響を与えた[10]

またこの時期には主に海洋において探検航海が多く行われ、なかでもジェームズ・クック太平洋航海は大きな成果をもたらし[11]、太平洋の海域地理はほぼ明らかになった[12]

一方で、大航海時代以来ヨーロッパが接触するようになった他地域の文化、アメリカやアフリカ、オセアニアの民族は、キリスト教中世においては絶対視された人間と自然の間の懸崖への確信を動揺させ、自然と人間の関係を再考させるとともに、その中間段階として理論的に構想された、社会を作る以前の段階にある「自然人」 (homo naturalis)の概念を生み出す一因ともなった。また、特に大西洋交易において奴隷貿易は大きな富を生み出していたが、啓蒙時代末期になるとアメリカ北部の一部の州で奴隷制が廃止されるようになり、またイングランドでは奴隷貿易の反対運動が始まっていた。しかし社会構造の大きな転換を伴うことから、啓蒙思想家の多くは奴隷制に批判的だったもののその中で廃止を求めるものはほとんどいなかった[13]
進歩の思想と新旧論争

古典古代以来、過去を黄金時代とみなし、人類社会は栄光と衰退を循環するという見解が主流となっていた。この考え方に従えば、ルネサンスによって再び黄金時代を迎えた社会はやがて衰退することになる[14]。一方、ルネサンス以降の学芸、技術の発展は、西ヨーロッパ人に現時点の自らが文明の極にいるとの観念を抱かせた。いわゆる「未開社会」との接触もそのような世界観に寄与した。こうして人類や社会は過去から未来に向かい絶えず改善されていくという「進歩」の概念が登場し主流となったが[15]、古くからの概念もまた残存していた。17世紀末にフランスに始まったいわゆる新旧論争、「古代人・近代人対比論争」は、このような対立する見解が、自らの立場を立証するため、古今の例を引いて行った文明論の側面を持つ。この論争自体は古代人、すなわちギリシア・ローマ人と近代人すなわち17世紀から18世紀の西ヨーロッパ人のどちらが優れているかという最初から結論の出しようのない問題を扱っており、論争が再燃するたびに、この点では古代が優れ、かの点では近代が優れるという、玉虫色の決着で論争が下火になるという経過をたどったものの、そのつど主題を変え、またフランスからヨーロッパ各地に飛び火して、都合100年ほどに渡ってヨーロッパ思想界の大きな問題のひとつとなった。

新旧論争のきっかけとなったのはシャルル・ペローの称詩「ルイ大王の御代」である。ルイ14世の病気快癒を祝うこの詩のなかで、ルイ14世の治世は、古代ローマのアウグストゥスの時代をしのいで優れていると述べられる。アウグストゥスの治世下とはウェルギリウスオウィディウスといったラテン文学を代表する詩人を輩出した時代であり、当時の価値観では古典古代の最盛期とみなされていた。ペローは、自らの時代のフランス文化がそれに勝る、いわば人類文化の精髄であると述べたわけである。この一行限りの言及に、激しい反発を示したのは、皮肉にも詩において称えられた当代の知識人であった。フランス宮廷は、古代こそが優れており近代はそれに及ばないとする古代人派と、近代は古代の文化水準を凌駕しているとする近代人派に二分された。

このとき主に取り上げられた領域は思想や文芸であったが、絵画における色彩論争や音楽におけるブフォン論争も、古典的規範を遵守した作品と、当世風感覚を追求した作品のどちらに優位を与えるかを争う点で、新旧論争の変形と考えることが出来る。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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