啓蒙主義
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ドゥニ・ディドロ

エティエンヌ・ボノ・ドゥ・コンディヤック

ニコラ・ド・コンドルセ

ドイツ

ドイツの啓蒙思想は、クリスティアン・ヴォルフ等によって整備され、イマヌエル・カント等によって発展された他、ゴットホルト・エフライム・レッシングのような人物も加わりつつ形成された。
説明
政治思想人工の怪物としてあらわされた国家、リヴァイアサン口絵フランス革命を思想的に準備したルソー

啓蒙主義的な政治哲学は、まずトマス・ホッブズによって体系的にまとめられた。ホッブズは国家理論を形成するに当たって、既存国家をモデルとせず、理念型としての契約国家を想定した。これはまず、現実の人間観察から文明社会以前の原始状態にある人間社会を想定し、それを自然状態とした。さらにこの自然状態と現実的な国家社会の間に一種の飛躍を想定し、それが何らかの契約であるとした。この契約によって規定される人工的な国家の理念型がすなわちホッブズのいう人工生物「リヴァイアサン」である。この人工国家の特徴は主権という形で国家意志をもつことであり、主権は構成員たる国民宗教政策など国家に付随するあらゆることを服従させると説かれた。このような原理的な国家モデルを提供し、その契機になんらかの契約を重視する考え方を含んでいるのが啓蒙主義の国家論の特徴である。

ホッブズの理論を批判的に発展させたのがジョン・ロックである。ロックは1689年にTwo Treatises of Government『市民政府二論』(あるいは『統治論』)を発表し、ホッブズにあってなお不十分であった主権の分析を徹底した。すなわちホッブズにおいては主権は国家の構成員たる国民の契約で形成されているのにもかかわらず、国民と直接の関係性をもたない第三者的存在であった。これでは国民は契約によって成立した主権に対してはどこまでも従順でいなければならない。しかしロックはこの主権を国民の代表が参加する立法機関によって規定されるものとした。すなわち立法権が主権である。そしてこの立法機関は人民の信託により成立し、決定は多数決によるとされた。同時に主権が国民の意思に反する場合は抵抗権を行使することができると説いた。また清教徒革命の宗教性を批判して宗教的寛容を主張したロックは、国家論においてもその立場を主張している。

こののちジャン=ジャック・ルソーによって啓蒙主義的な国家論が大成される。ルソーは『社会契約説』において、ロックよりも分析をすすめ、国民と政府を機構的に分離させ、主権を国民に設定した。そのためルソーにおいては主権に対する抵抗権は存在しない。政府は主権を保持していないので、国民はよりラディカルな姿勢で政府転覆をはかることが可能である。またルソーの理論に特徴的なことは、ロックにおいて見られた永続的な立法機関が存在しない。立法は人格を備えた立法者によっておこなわれるとされ、このような人格的な立法はライフ・サイクルを伴う。つまり政治的存在である国家は必ず堕落すると考えられていたのである。このようなルソーの理論の特徴はフランス革命を理論的に準備したといえる。

さてこのような主権概念に大きく依存した国家観は、ルソーの思想がフランス革命を準備したにせよ、啓蒙思想の時代でさえすでに時代遅れのものと考えられていた。ヴォルテールは社会契約説を歴史的事実として認めていないし、彼は政治的な平等主義を認めていない。ヒュームは国家形成の契機としての社会契約を完全に否定して、個人に社会性を調達するものは共感であり、実践の世界ではあらゆる物事は慣習的な、したがって社会的な基盤をもつと考えた。

また国家理性としての主権概念も絶対的な地位から転落していく。マイネッケが指摘しているように、国家理性の利己主義を法や道徳の要求と一致させようという啓蒙主義の試みは基本的に不毛であった。啓蒙主義的政治思想が明らかにした国家理性と国民の道徳意識との乖離は啓蒙主義的な国家観の限界を示し、現実的にはフランス革命の進展に伴って保守主義の立場から深刻な批判が加えられることになる。日本の憲法論や天皇機関説にも大きな影響を残した19世紀の国家学者イェリネックは『一般国家学』のなかで主権概念を国家権力それ自体ではなく、その一部としている。
倫理思想啓蒙主義の倫理思想に激しい批判を加えたヒューム倫理思想から啓蒙主義を追放したカント

ロックが『人間悟性論』によって観念の生得性を否定したことは倫理思想においても大きな影響を及ぼした。ロックにおいては倫理学的本質が実在的性質を持ち、経験的に把握されると説かれた。これは純粋理性と実践理性による推理を同質なものと見なす素朴な考え方に基づいており、理性レベルにおける良心の共有というような曖昧な証明にとどまっている限り、認識論の深化によって糾弾されるべきであった。

実際啓蒙主義が純粋理性的認識と実践理性的認識を等価値にしていたことは、倫理的な問題をしばしば機械論的人間論に還元してしまったり、社会による人間疎外の問題にしてしまった。純粋に道徳的価値が議論されることは稀であった。モーペルテュイは『道徳哲学試論』のなかで快と不快によって量的にあるいは幾何学的に道徳的価値が判断可能であるとした。またヴォルテールはしばしばパスカル懐疑論を批判したが、積極的な倫理思想を展開することが出来ず、現実肯定的に「寛容」を主張するにとどまった。パスカルに比べると啓蒙主義の倫理思想は概して表層的であった。

ヒュームは『人性論』においてロックの経験論的立場を徹底させ、あらゆる観念の理性による基礎付けを否定した。実在的本質と理性的推理の間に連関はなく、あるのはただ原因と結果のみであり、一般に理性により普遍で不変とされていたその推理過程は、一種の蓋然的な法則にすぎない。すなわち純粋理性の否定である。またヒュームによって実践理性の領域である道徳を純粋理性の真偽と同じように判断することは不可能であるとされ、それらは行為や事物の実践的把握に必然的にともなう印象によるとされた。この印象は共感というかたちで一定の社会あるいは人々の間に共有されているものであり、社会的基盤を持つ。この共感が社会的基盤をもつということは、道徳的価値判断が純粋理性によるものではないことを示しており、ヒュームは純粋理性と実践理性を分離するとともに、啓蒙主義的立場による道徳の把握に根元的な批判を加えた。

ヒュームの重要な指摘を継承し、啓蒙主義以後の倫理思想を支えたのはベンサムら功利主義とカントに始まるドイツ観念論である。


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