秦はそれまでは内陸奥地に起源を持ち、中国中央とはやや異なった風習でもあり、野蛮国と見なされてきた。しかし彼によってそういった面は改革され、さらに魏に勝ったことで強国として一目置かれることとなった。
また、恵文王以降の秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した。商鞅より半世紀前、楚の呉起も商鞅のように厳しい法を残したが、そちらは呉起の死後に廃止されている。このため王と法の下にひとまとまりとなった秦は、門閥の影響が強く纏まっていなかった楚などを着実に破っていく。最終的に秦が戦国乱世を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。商鞅の言の通り「旧習に従わず王者となり、変えなかったものは滅んだ」のである。
現代では政治家および法律学者(法家)としての評価が高いが、戦国時代には稀代の将軍・軍事思想家(兵家)としても敬服されていた。『荀子』「議兵篇」において、荀子は、戦国時代の名将として商鞅(原文では衛鞅)を田単ら他二人と共に上げている(ただし、荀子自身は商鞅等四人を小手先の兵法に通じた者として批判し、春秋時代の覇者や、古代の王者よりは下としている)[9]。商鞅の軍事思想を記録したものとして、『漢書』「芸文志」は『公孫鞅』二十七篇を記載している[10]が、後に散逸した。
なお、伝説的ではあるが、蘇秦はその弁舌を生かす活動を始めた際、まず周を訪れたが相手にされず、次に秦を訪れた。彼は恵王に「軍事教練を強化すれば、帝と称することが出来るようになる」と説いたという。しかし王はこれを拒否した。その理由の一つが商鞅を処刑した後であり、弁舌の士を嫌ったのだという。蘇秦はその後合従の連盟を作ることに成功し、そのために秦は15年にわたって国外に出られなかった。
脚注[脚注の使い方]^ 中国語で正しくは「公叔?」の文字で表すが、日本では公叔座の文字で表すことが多い。
^ 『周礼』「夏官司馬」では「諸子
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