商人
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ローマ帝国に代わったイスラム帝国の拡大によってイスラム法(シャリーア)のもとで商慣習が統一され、アッバース朝成立後の8世紀以降は地中海西アジアインド洋で商業が急激に発達した。地中海のユダヤ、エジプト、シリア商人とシルクロードのソグド人を含む内陸の商人、ペルシア湾やインド洋の商人はイスラーム圏の影響の元で活動し、ムスリム商人は、中国のでも取引を行った。商人たちが協働するための制度として、イタリアのコンメンダやソキエタス(ヴェネツィアのコレガンティア)、東ローマ帝国のクレオコイノーニャ、イスラーム世界のキラード、ムダーラバなどが整備され、共同で事業経営をするシルカという制度も発達した。タージル(アラビア語で商人)と呼ばれるイスラーム圏の大商人は、ワジールなどの政府要職に任命され、ワクフ(基金を集め公共サービスを行う者、その習慣)によって都市機能を維持して社会的地位を高めた。

11世紀頃の人物とされるディマシュキーは、先駆的な商業書である『商業の美』において、商人をハッザーン、ラッカード、ムジャッヒズに分け、その役割と重要性について論じている[7]。ハッザーンは、倉庫業や卸売で市場において高い時期に売り、安い時期に貯蔵する。つまり売買時期の差額で儲ける。ラッカードは、運送業や行商で商品の値段が高い場所で売り、安い場所で買う。空間的な差を利用して差額で儲ける。ムジャッヒズは、貿易業者や大規模な問屋で各地の代理店も使って貿易を行い、時間と空間の差を組み合わせて儲ける者である[8]

イスラム商人の活躍に対してソグド人は、安史の乱によって大打撃を受け、次第に姿を消した。ソグド人を重用したウイグルも唐朝との馬やラクダの交易で繁栄したが、唐との関係が悪化すると交易も断たれる。

イタリアの商人は、十字軍をきっかけに北ヨーロッパとの関係を強め、ジェノヴァピサヴェネツィアは、十字軍を援助して戦利品や特権の獲得に加えて債権も得た。ただし十字軍の債務を放棄する国家も現れ、貸し倒れになった銀行もあった。またイタリア商人は、直接、イスラム教圏と取引するようになる。

イタリア商人の台頭に対してヨーロッパ在住ユダヤ人は、イスラム教圏在住ユダヤ人との取引を独占することで公的に認められた唯一の交易商人としての保護を失った。また迫害によって農業や手工業、公職からも追放されたため貸金業や質屋、両替商として活動の場を移すことになる。ドイツを中心とする北ヨーロッパ在住の「金貸しのユダヤ人(アシュケナジム)」のイメージは、ここから来ている。しかしそれらの市場も次第に奪われるようになった。15世紀、イベリア半島のレコンギスタが終結し、迫害が強まって多くのユダヤ人は、オスマン帝国や地中海沿岸に移住した。

8世紀の中国は、唐朝の中頃で758年に塩と鉄の専売制を布いた。特にシルクロードの由来ともなった絹の人気をはじめ数々の手工業は、官営化され産業が保護された。また”行”と呼ばれる商売をする場所、扱う商品を決められた同業者組合が作られた。現在の「銀行」もこれが語源といえる。政府が管理する行商の集まる市場が長安は、東西に二ヵ所、洛陽は、南北西の三ヵ所に開かれた。10世紀の中国は、五代から宋代にかけて技術の進歩により農業や手工業が促進し、生産量だけでなく特産品が増え、地域の経済格差が広がった。特に有名なのが景徳鎮をはじめとする青磁、白磁などの窯業である。この事は、商人にとって射幸心を刺激される土壌であり、大いに栄えた。大規模な商業圏を移動する行商人を客商と呼び、地元商人を座商とした。また倉庫業を営む邸店、小売店の舗戸、仲介人は、牙人と呼ばれた。さらに地域ごとに活動する商幇などが活躍した。経済圏は、中国内部に留まらず西アジアや東南アジアにまで広がった。宋朝は、唐代に根付いたの人気に着目し、専売制が布かれ茶商が栄えた。また茶器・茶道具として様々な美術品が販売・生産されるようになった。

日本の文献で専門の商人が現れるのは、8世紀以降である[9]。それ以前は、貨幣経済が浸透せず711年和銅4年)に蓄銭叙位令まで発せられた。平城京には、都城の内部に官営の市が設けられ、市籍をもつ商人が売買を行った[9]平安京には、東西の市が設けられ、市籍をもたぬ商人もふくめて売買がなされ、各地の特産物などが行商された[9]院政期や平氏政権の時期には、京都をはじめとして常設店舗をもつ商人が現れ、彼らは、寺社権門勢家と結びついて自らの力を保持ないし拡大しようとした[9]864年貞観6年)には、市籍人が貴族皇族に仕えることを禁じた命令が出されている。日本も独自の貨幣を鋳造したが、手間を省くために宋銭を使用するようになったが偽造貨幣が出回った。これを鐚と呼んだが、偽造貨幣と知られながら宋銭の半値で使用された。
近世(11世紀 - 16世紀)

銀行は、資金調達や財政管理の能力によって権力者への影響力を強めた。イタリア商人の北ヨーロッパに対する債権は、商品の形をとりシャンパーニュの大市などで取引をされた(債権売買)。イタリア商人は、教皇庁の財政とも結びつき、教会の収入を送金する金融業を行うようになる。フィレンツェバルディ家やペルッツィ家などの銀行家は、王侯貴族に貸付をし、彼らの財政収入を担保とした[10]。取り分けメディチ家は、隆盛を極めた。北ヨーロッパでは、ハンザと呼ばれる遠隔地商人が都市の有力市民となり、都市間の商業同盟を結んでドイツを中心にハンザ同盟が成立した。これらの経済的繁栄は、文芸復興に結びつき華やかな文化を育てることになる。しかしオスマン帝国の伸長と16世紀大航海時代が始まると大量の銀、金がヨーロッパに流れ込み通貨の価値が下落する価格革命が起こる。

13世紀から14世紀まで中国の元朝では、モンゴル人は、交易に加わらず、特権ムスリム商人(オルトク)によって帝国内の財政や交易を担当させた。またモンゴル帝国は、金朝の制度を継承して紙幣(交鈔)を発行させた。やがてモンゴル帝国が零落するとシルクロードやムスリム商人の活動圏は、オスマン帝国が継承し、その莫大な収益を独占した。またオスマン帝国は、地中海にも進出したためイタリア商人を排斥し、代わってイスラム教圏に住むユダヤ人セファルディムが活躍した。さらに欧州から移住するユダヤ人も国内に住まわせた。同じく滅びた元朝に代わって明朝が中国に興るとモンゴル人によって荒廃した華北に代わって経済の中心も江南に移った。江南の農業生産量は、華北を凌ぐまでになり蘇州松江の収穫のみで食料が賄えるとして「蘇松熟すれば天下足る」という言葉が作られ、農作物を各地に転売する農本思想が重用された。

13世紀にイスラム商人は、東アフリカ、ペルシア湾からインド洋、東南アジアのマラッカ海峡に至るまでの海路上で活躍した。またこれによって東南アジアでイスラム教が広がった。マレーシア半島に興ったマラッカ王国は、代表的なイスラム国家であり交易ルートの中心的役割を果たし、南シナ海との中継貿易で繁栄した。東アフリカでは、アイユーブ朝、マムルーク朝エジプトが興り、ここでは、カーリミー商人と呼ばれ、イタリア商人と貿易した。

メキシコ高地では、特権商人のポチテカが遠隔地交易によってアステカの征服に貢献していた。

日本では、有力権門や寺社の雑色神人供御人が、その権威を背景に諸国と京都を往復して交易を行うようになる。彼らは、荘園制度の崩壊により権門や寺社を本所(名目上の領主)として仰ぎ、自分たちは、奉仕の義務と引き換えに諸国通行自由・関銭免除・治外法権などの特権を保障された集団「」を組織した。特に大山崎油座は、畿内一円に大きな勢力を誇った。金融は、神に捧げられた上分米や上分銭を資本として神人たちによって行われ、13世紀以降は、利銭も行われた[11]鎌倉時代から室町時代にかけて活躍した貸金業者は、土倉、酒屋と呼ばれた。彼らは、次第に本所から実権を奪い取って自治を始める町衆まで現れた。は、町衆によって自治され「東洋のベニス」と呼ばれる栄華を誇った。豪商たちは、高価な輸入品や権門や寺社の所有する宝物を手に入れると、これらを鑑賞する茶の湯を起こした。室町期の日本商人の発明として、「見世棚(みせだな)」があり、15世紀当時の朝鮮では魚肉でも地べたにおいて、売っていたため、この見世棚商法は当時の東アジアでは衛生面で画期的な商法であり、日本語における店の語源ともなり、以降、日本では、店を「たな(棚)」「みせ(見世)」と読むようになった(詳細はの日本における見世棚商法、およびも参照)。
近代(16世紀 - 19世紀)

イスラム商人は、欧州列強が海外進出を続ける中、東南アジアやインド洋から姿を消した。1509年のディウ沖の海戦でポルトガル海軍がマムルーク朝エジプト海軍とインド諸侯連合軍を撃破して、アラビア海を獲得して東南アジアへの海路を確保した。翌年1510年には、インド西岸ゴアを制圧、また翌年1511年には、ポルトガルは、マラッカ王国を占領した。1535年にポルトガルは、デイウ島に要塞を建設してインド洋の制海権を確固とし、イスラム商人は、その後、ダウ船などが細々と活動するのみとなった。

17世紀の危機によりヨーロッパの各国は、財政危機を迎える。


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