唯一の神
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また、ムスハフの中において神は、キリスト教の説く三位一体説は、人間であるイエスを神としているので、これは誤りであるとしている[43] 。その意味からすると、人間であったイエスを神の息子としての神の子であるとすることや三位一体の教説を主張している四福音書は、重大な誤りを含んでいるといえる。それは宣教のための物語である、とする見解もある[注 33]。四福音書にはそれぞれに記述の食い違いがあるという点を、イスラームにおけるナスフによって言い換えると、それは、「啓典の歪曲」に当てはまるようだ。特に、ある同じ文書を見て作られたとされる共観福音書については、自分たちの宗派に合った伝承に、彼らの作者の手が加えられた物語であると言える。「啓典の歪曲」が多くみられる新約聖書は、神がイエスに下した啓示をそのまま記した言行録ではないといえる。共観福音書の作者は、神がイエスに下した啓示を歪曲して、自分たちの宗派に合った宣教物語を作成したと言えるようである[注 34]。イスラームの啓示において、新約聖書の啓示は歪曲されているという判断が下されていることと、イエスは神の被造物であるという聖書にもとづく見解は、同じものであるといえる。こうしたことから考えると、啓示宗教としてみるならば、唯一神を複合的にした三位一体説は、人為宗教的な神観念であるといえる。
キリスト教系新宗教における唯一神
セブンスデー・アドベンチスト教会
エホバの証人

エホバの証人における神は、ユダヤ教の唯一の神と同じとされている。神より来る霊的存在や、救済者については、キリスト教と同じで、これらも唯一神であるとされている。キリスト教との相違点は、この世における、この組織の頂点に位置する統治体のうえに、イエスキリストが臨在しているという点である。

エホバの証人の信仰している神の呼び方はエホバであるとしている。エホバ神は、旧約聖書でいうヤハウェのことである。エホバ神は、「最後の時」を、1914年から起こしたとされている。エホバの証人の組織は、その観念への対応から初期の聖書研究会によって構築されたものであるが、統治体の上にのみイエス・キリストが臨在しているとしている。[注 35]。その、神とイエスの啓示が、信仰の基盤とされている。実際の信仰生活において、ヤハウェと、エホバの神との大きな違いは、「最後の時」を発動しているかどうかというところにあるといえる。

また、統治する王イエス・キリストは、これまでのキリスト教世界について、自分の父なる神の敵対者とみなしているとしている。[45]
その他のキリスト教系新宗教
末日聖徒イエス・キリスト教会

ユダヤ教と同じ唯一神を神としている。天の父とされる唯一神は、完全な肉体を持っているとされている。神より来る霊的存在は、唯一神とは別個の存在であるとされている。人間として生まれた救済者は、唯一神の長子であるとされている。新約聖書とは異なる一冊の聖なる書物を神より啓示されたとしている。(その原本は現在存在していない。)また、教祖は預言者であるとされている。
その他

世界平和統一家庭連合
広義の意味における唯一神

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太陽信仰

太陽は一つしかないという認識に基づいて、太陽神を信仰することは、単一神教に類する唯一神信仰であるといえる。
宇宙神信仰
宇宙

宇宙は一つしかないという認識に基づいて、宇宙の真理としての人格的な一者を信仰することは。単一神教に類する唯一神信仰であるといえる。
自然現象の背後

自然の背後に、人格的な面を持つ真理が存在するということを信仰することは、単一神教に類する唯一神信仰であるといえる。
創作物による信仰

ある一定層に置いて、人間の創作品物において信仰を行う行動を起こすことがある。「沙耶の唄」などの独特の世界観を持つものに対して、創作物でありながら独自の解釈を持ち唯一神として崇める偶像崇拝も信仰として成り立つと考える。
脚注
注釈^ 絶対的一神教とは、 すべての民族・国民がただひとつの神を信ずべきだとする立場にある。(出典ブリタニカ百科事典【一神教】)。絶対的一神教としての唯一神教は、他の神々の存在を認めないという特徴を持っている。
^ モーセの十戒に見られる、他の神々と共存した観点を持つ拝一神教は古いものとされ、創世記の原初史に記されている唯一神信仰は、紀元前550年前後のバビロニア捕囚期の時代のものと考えられている。(岩波キリスト教辞典2002年P869、「拝一神教」の項目、山我哲雄)
^ それらが理由もなく交替して現れてくることは、内容の似た別個の二つの話を組み合わせてひとつの話に編集したためであるとされている。たとえば創世記6:5と創世記6:9等がある
^ 創世記20:13、サムエル記下35:7、詩篇58:11などにも見られることから、二つの物語物語のうちの一つは、あまり唯一性にこだわっていなかったように見える。
^ ヘブライ聖書における神観念は、初期には拝一神教であった。(出典 『岩波キリスト教辞典』P869 拝一神教の項目 山我哲雄)(サム上26:19、士11:24、出20:2)
^ この段階ではまだ拝一神教として信仰されており、創造神(唯一神)には変わっていなかった。次のソロモン王の時代になると、他の神々への崇拝が行われるようになった。(出典 『一神教の誕生』講談社現代新書 加藤隆著P54?P57
^ ダビデ王は十戒を刻んだ石板の入った契約の箱エルサレムに安置したとされる。(出典 『岩波キリスト教辞典』P158 エルサレムの項目 黒川知文)
^ このことから、後に聖書となる文書集と神殿との位置づけが変わっていったとされる。(出典『一神教の誕生』講談社現代新書 加藤隆著P86)
^ 「座して全存在を支配している人格神」というのは、旧約聖書のイザヤ書(14章)や、新約聖書の使徒行伝やヨハネによる黙示録に出てくる「神の座に座す唯一神」に該当するといえる。
^ 神の重要な属性としては、慈悲・真・善・約束を守る・啓示に矛盾がない、などがあるとされる(出典『イスラーム文化』井筒俊彦著 岩波書店1991年 P88)
^ 「我々(アッラー)は、ある一つの節を取り消したり、または忘れさせたりすることがある。その理由としては、それよりも良いものか同等の啓示を、信者に与えるためである(出典 コーラン2章 106節)」という啓示である。
^ 17章73節には、神ならざる存在は、ムハンマドを誘惑して、もう一つ別の啓示を捏造させることが可能である、ということが記されている。
^ イスラム法学者は、時期的に新しい神の真理が、前からある神の真理を破棄することが出来るという方法を考え出した。これにより、「背信者は、その人が背信者であるために、神の真理が、食い違いがあるように見えるのだ」、という見解を、イスラム法学者は主張できるようだ。
^ 初期のキリスト教宗派の中のいくつかの宗派は、イエスが十字架につけられて死んだとは信じていなかった宗派があったとされている。ムハンマドもこれと同じように考えて、イエスが十字架で死んだことは虚妄であるとした。そして、ムハンマドは、彼らの虚妄を非難していたものであるとする解釈もある。(出典『コーラン 1』藤本勝次 伴康哉 池田修 中央公論新社 2002年 P130 注9)
^ 当初ムハンマドの教えはイエスの教えやブッダの教えと同じものであったが、剣を取ることにより矛盾が生じ、彼らの教えとはかけ離れたものになってしまった、とする見解がある。(出典『心眼を開く』高橋信次著 三宝出版 1974年 P142)
^ 霊の姿が見えないムハンマドは、「お前は今、こんなことを考えているだろう」、「神様にはすべてお見通しだ」、「疑うことは背信行為である」という啓示を受けた場合、ムハンマドはその真偽を確かめるすべを持たなかった。ムハンマドは、絶対帰依の態度で、それを受け入れた。こうした誘導行為は、悪霊を神として祀る宗教や、神による啓示宗教にはありがちなことであるとする見解がある。(出典『心の指針』高橋信次著 三宝出版1974年 P80)
^ しかしながら、ムスハフにおいては、「モーセの教え」や「イエスの教え」というふうには捉えられていない。それらについては、ムハンマドの生存した当時の各宗派の口伝や回答の中に出てくる聖典、といったような曖昧な捉え方が為されている。「啓典の民」という言い回しは、「クルアーンは最も優れた啓典である」という神による自己主張のひきあいに出されているだけの場合が多いといえる。
^ ここでは、今現在啓示を下している神がそのままこの神殿の主であるとは言っておらず、厳密な意味では違うと見ることができる。啓示している神の方針としては、「他との調和を図りながら唯一の神を拝みなさい」ということで、彼らは彼らで彼らの神を、そのまま拝ませておけばよい、というふうに読める
^ 多神教徒は見つけ次第殺せという句は、生かそうとする神の意志に反するという見方もできる。「神は善い者の上にも悪い者の上にも太陽を登らせ、雨を降らせてくださる」、というイエスの言葉と同じようにも見える。日々刻々と人間を生かす働きをなす絶対的な神にとって、信仰者・不信仰者という見方や、敵・味方の次元は超えていると言える。
^ 一年に一度は、警告者の心の境地が聖断の夜と同調し、警告者にとっての運命の夜が訪れることが読み取れる。そして、その日は千の月(100年ほど)と同じほどの重要性があるということである。それはこういうふうにも読み取れる、「神の慈悲により、少なくとも100年に一度、預言者が出現しつづける」と。神は、世の苦しみが続く限り、預言者の系譜を続けてゆくようだ。
^ 現在のイスラームのように、警告者が、神の意志に反してこの世の王となったという事態に加えて、神が、「私は、ムハンマドで預言者を世に送ることをやめる」という啓示を下せば、神は、彼の後に続く預言者の系譜の全体を否定できることとなる。


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