唯一の神
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その、最初期の啓示に顕された姿は、ユダヤ教(なかでもモーセの十戒)やキリスト教(なかでもナザレのイエスの教え)で説かれている神の姿とたいへんよく似通っているとされる[29] [注 17]。97章では、「天使たち」と「聖霊」は、主のお許しを得て、すべての神命をもって地上に降臨することが啓示されている。これは、ユダヤ教の世界観と同じような世界観であると見ることができる。また、ごく初期のものとされる96章1?5、74章1?7では、「あなたの主」、という呼称が、神の啓示の中で用いられている。
慈悲の神

『クルアーン』第88章では、神が天地の(ひいては宇宙の)創造主であることを顕している。ここではメディナ期の啓示における平坦な地球を回る天動説の宇宙論とは異なり、現代でも通用する総合的な表現がされている。神の創造により万物がつくられたと表現されている。人間が眼前に見ることができる自然の営みの中に、神の力が見られるとされている。めぐりゆく自然の姿も神の創造の力であるとされている[30]。 また、地球環境を全体的に整え、人間が生活できるように保っているのは、変わることのない神の慈悲心のあらわれであるとされている[30]
平和の神

106章1には、「クライシュ族をして無事安泰に」という啓示があり、これは初期の啓示であるとされている。強情な偶像崇拝者であっても、無事安泰を祈れ、すなわち敵の平和を祈り行動せよということが言われている[31]

106章3には、彼ら偶像崇拝者はそのまま彼らの主としている神におつかえさせておけばよい、ということが、神によって言われている[注 18]。神は、すべての存在を育んでいる。そのため、神には、敵というものは無いと考えることができる。「あなたのために、わたしの前に他の神々があってはならない」というモーセの説いた、十戒の第一条と同じもののようでもある[注 19]
人間を導く神

人間は智慧を持つ存在となるように成長してゆくことができる。神はそのように人間を作った。96章において、神は、孤児であったムハンマドを導き、望んでいた女性との結婚ではなく、ハディージャという未亡人との結婚を通して、財政的にも、知的にも豊かになるように導いた[32]
「使徒」を遣わすことも神の恩寵

人類を導くために「使徒」を遣わすことも神の恩寵の一つである。初期には最後の使徒ということは言われておらず[33]、むしろ、苦しむ人間のいる世界が終わらない限り、「使徒」は必要とされてゆくでしょう。よりよく成長してゆく人間がいる限り、神は使徒を送り続ける、というようなニュアンスがある。カダルの夜に、天使たちと聖霊は、主のお許しを得て、すべての神命をもって聖なる月に降臨することが啓示されている。それは、一年に一度あるとされている[34][注 20]

また、後年アラビアの王となったムハンマドに警告するかのように、「汝は一人の警告者にほかならない、彼らの支配者ではないのだ」、というメッセージも下されている[30][注 21]
肉体が復活するというタイプの最後の審判は明言されていない

初期の啓示においては、肉体が復活する最後の審判については明言されていない。神がこの世を滅ぼしたのちに、新しい世界を創るということも想定されていない。そのため、初期には拝一神教として成立していたと見ることができる。初期の啓示(84章)においては、死んで地獄に行った男が地獄で苦しめられている様を、今まさに、目の前で神が見ている様が描かれている。そして、人間には、死ぬと天(天国)に上る魂があるようである。(あの世に行ったと思われる)魂が、何段階かに分かれている天の国を、渡り歩く姿が描かれている[35]。「最後のさばきの日」(ヤウム・アッデイーン)という語には、「真実の時」という意味もあるとされている[36]。初期のころ、クルアーンが朗誦されたときに、それを聞いた者のズィクル(喚起)と一体となった姿で審判の時が説かれていたとされる。クルアーンの朗誦は、聞き手が「真実の時」を生きるように、実存的ともいえる、時空を超えた神の審判に直面させる現象が生まれるとされている[37][注 22]
モーセ

モーセの神は、一つの天地を創った、という点から見ると、真理とされる「唯一の神」であるという見方ができる。
神の導き

モーセに啓示を下した神は、他との協調を重んじたという点から見ると、拝一神教の神であるといえる。ユダヤ民族が他国と戦争することをよしとせず、他の土地に導いた導きの神でもある。何もない荒地の中を、神は、40年間導いたとされる。
モーセの十戒

ヘブライ語聖書(タナハ)におけるモーセの十戒は、字義どおりに言うと、ヘブライ語聖書では「十の言葉」であるとされている[注 23]

他の神々が、あなたのためにわたしの面前にあってはならない[注 24]

あなたは自分のために像を作ってはならない[注 25]。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にあるもののいかなる形も。あなたはそれにひれ伏しても、それらに仕えさせられてもならない[注 26]

あなたは、あなたのヤハウェの名を、空しいこと[注 27]のために唱えてはならない。

安息日を覚え、これを聖別しなさい。

あなたはあなたの父と母を重んじなさい。

あなたは殺してはならない。

あなたは姦淫してはならない。

あなたは絶対に 盗んではならない。

あなたはあなたの隣人に対し、偽の証言をしてはならない。

あなたはあなたの隣人の家を欲しがってはならない。(あなたの隣人のすべてのものを欲しがってはならない。

モーセ十戒に見る唯一の神の姿
イエス(宗教者)

イエスの宗教は、異端を認めていたという点で、「父なる神」としての唯一神を信仰するところの拝一神教であったといえる。神の子については、「平和をつくりだす人々」という複数の人間について、神の子であるとしていた。自分一人が神の子であると語っていたわけではないので、神の啓示としては、人類は神の子であるという認識が啓示されていたようである。また。聖霊に対する罪は、永遠に許されることはないとしていた。唯一神は、神と聖霊は別格であるという啓示を、イエスに下していたと見ることができる[注 28]
「一なる神」

父なる神について、イエスは一なる神としていた[注 29]
神は平和の神
父なる神の愛
神の国について
イエスの終末観

拝一神教と絶対的一神教を区別することの一つに、この世が滅ぼされ、そののち、神による新しい世界が創られる、という終末観念がある。

イエスが直接に語った終末観とは、マルコ福音書13:32にある「かの日ないし〔かの〕時刻については、誰も知らない。天にいるみ使いたちも、子も知らない。父のみが知っている」、という記述であるとされている[38]。なお、マルコ福音書に出てくる終末については、エルサレム神殿崩壊を世の終わりの出来事と理解する筆者の見方や古い注によって編集されており[39]、 不明瞭な記述となっている。世の終わりについて、ナザレのイエスは天のみ使いさえも計り知ることのできないほどの深遠な事態であるとしているのに対して、パウロは、自分が生きているうちに主の来臨の時はやってくるとしていた。テサロニケ第一の手紙が書かれてから40年ほどしてからヨハネ福音書が書かれた。ヨハネ福音書[注 30]はイエスの終末観と共通の部分があると思われ、世の終わり・裁きの時という概念は明瞭になっていない。人々がイエスの啓示に対して下す判断が、その人の運命を決定するとされ、悪人を裁いて滅ぼすためではなく、救うために布教していることが記されている[40]ヨハネ福音書では、裁きはもう来ているとされていて、この世の支配者はすでに裁かれたともされている。[40]
キリスト教グノーシス主義(一元論的)
キリスト教アリウス派

西暦325年、教会会議がローマ皇帝コンスタンティヌスの命の下に、小アジアのニケアに召集された。長老アリウスの見解は、イエスは神に創造されたものであり、御父に従属するという聖書の啓示に即した見解であった。
複合的な唯一神
キリスト教

キリスト教の神は、ユダヤ教における唯一絶対の神を神としている。それと合わせて、神より来るとされている霊的存在についても、唯一神としている。さらには、歴史上の人間を唯一神と同格の神として信仰している。神の子は複数の人間を指すのではなく一人の人間を指している。

啓示宗教としてみた場合、キリスト教においては、三位の神が、それぞれに啓示を下すとされている。


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