唐(とう、.mw-parser-output .pinyin{font-family:system-ui,"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}.mw-parser-output .jyutping{font-family:"Helvetica Neue","Helvetica","Arial","Arial Unicode MS",sans-serif}?音: Tang、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国であり、中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)に政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。 西晋の滅亡以来、中国は300年近くに渡る長い分裂時代が続いていたが北朝隋の文帝により、589年に再統一が為された[3]。文帝は内政面でも律令の制定[4]・三省六部を頂点とする官制改革[5]・郡を廃止して州県制を導入[6]・科挙制度の創設[7]など多数の改革を行った[8]。 604年、文帝崩御に伴い文帝の次男の楊広(煬帝)が後を継ぐ[9]。煬帝は文帝時代から引き継いだ大運河・洛陽新城などの大規模土木工事を完成させた[10]。さらに612年から3年連続で高句麗に対して三度の大規模な遠征を行うが、いずれも失敗に終わる(隋の高句麗遠征)[11]。その最中の613年に起きた楊玄感の反乱をきっかけにして隋全体で反乱が勃発[12]、大小200の勢力が相争う内乱状態となった(隋末唐初)[13][14]。 国内の混乱が激しくなる中、北の東突厥に面する太原の留守とされていた唐国公李淵は617年に挙兵。対峙する突厥と和議を結び、短期間に首都大興城(長安)を陥落させることに成功。煬帝を太上皇帝に祭り上げて、煬帝の孫で大興城の留守である楊侑を傀儡の皇帝に立てた(恭帝侑)、この時、煬帝は江都(揚州)で現実から逃避して酒色に溺れる生活を送っていたが[15][16]、長安占拠の報によって煬帝の親衛隊の間に動揺が広がり、618年に宇文化及を頭としたクーデターにより煬帝は弑逆された[17][15][16]。 同年、李淵は恭帝から禅譲を受けて即位。武徳と元号を改め、唐を建国した[18][15][16]。この時点で王世充・李密・竇建徳・劉武周など各地に群雄が割拠していた[19]。李淵(以下高祖とする)は長男の李建成を皇太子とし、次男の李世民を尚書令として[20]、各地の群雄討伐に向かわせた[18][21][22]。620年から最大の敵である洛陽の王世充を攻めるが、河北の竇建徳が王世充の要請に応えて10万の援軍を送ってきた。李世民の奮戦によりこれを撃破[18][21][23]。唐は最大の軍事的危機を乗り越えた[18]。 抜群の功績を挙げた李世民は皇太子である李建成および四男の李元吉[注釈 1]と後継の座を巡って対立するようになるが[18]、高祖は曖昧な態度でことを決めることができなかった[24]。626年、李世民は長安宮城の北門玄武門にて李建成と李元吉を殺し(玄武門の変)、さらに父の高祖に迫って譲位させ、自らが唐の二代皇帝となった(太宗)[18][25]。 帝位を継いだ太宗は626年に東突厥と結んで最後まで抵抗していた朔方郡の梁師都を平定し、統一を果たした[26][27]。
歴史建国者 李淵
前期
建国
貞観の治太宗 李世民