『古事記』によれば、応神天皇16年(285年)に、朝鮮半島から百済人の王仁が、中国の書物である『論語』10巻と『千字文』1巻を将来したのが、日本における書物の初伝とされるが、『千字文』の作者は、応神天皇より100年後の人物であるので、考証学上誤りである。考証学的には、4世紀から5世紀には伝来したものと推定される。 日本の紙作りの起源には複数の説がある[4]。大別すると、日本で自然に紙漉きが発生したとする説と、渡来人による伝来説になる[4]。いずれの場合でも、時期に関しても諸説あり、早いものでは3?4世紀とするものからある[4]。 5世紀に入ると、日本で紙作りが始まったきっかけになっただろうと考えられる有力な記録が登場する[5]。『日本書紀』に拠れば、履中天皇4年(403年)に初めて国史(ふみひと)を配置して言事(ことわざ)によって様々な事柄の記録を始める、とあり、公権力によって紙による記録が始まり、紙作りの必要性が興ったと推測されている[5]。なお、この年代に関しては『古事記』とは数十年の齟齬がある[注 1][5]。 6世紀初頭には、福井県今立町(2005年に合併により越前市の一部)にて、紙漉きが始まったとする伝承がある[5][6]。 6世紀半ばになると、欽明天皇元年(540年)が渡来人である秦人・漢人に戸籍の編集をさせたという記録がある[5]。この時に使われた紙は郷戸が作成したとされており、秦人が日本で紙を作ったと推測されている[5]。一方、これと相前後して宣化天皇3年(538年)[注 2]に仏教が伝来し、この際に百済の製紙技術が持ち込まれたと考えられている[5]。 製紙技術の歴史は、中国後漢時代の蔡倫の改良から始まる。中国から日本への製紙技術の伝来は、推古天皇18年(610年)、高句麗を経由してされたとされる。公式記録として確認できる記述は『日本書紀』にある。また、継体天皇7年(513年)、五経博士が百済から渡来し、「漢字」「仏教」が普及し始め、写経が仏教普及の大きな役割を果たしていたことから、この頃既に紙漉がいたのではないかと推測される。 『日本書紀』の記述は、「(推古天皇)十八年春三月 高麗王貢上僧 曇徴 法定 曇徴知五經 且能作彩色及紙墨 并造碾磑 蓋造碾磑 始于是時歟」、高句麗の王、僧曇徴、法定を貢上る。曇徴は五経を知れり。また彩色及び紙墨を能く作り、併せてみず臼(水車の動力を利用した挽き臼)を造るとある。飛鳥時代の推古天皇18年(610年)に高句麗の僧侶曇徴は紙漉きと墨を上手に作る事が出来、横型水車動力による特殊な石臼も造れ、石臼製造のみ日本初であると特記されている。なお、この石臼の用途については、色材(顔料)の製造用、寺院による豆乳製造用、製紙原料叩解・解繊用と諸説あり定まっていない。年代のわかるものとして現存する最古の和紙は、正倉院に残る美濃国、筑前国、豊前国の戸籍用紙である。また、最古の写経である西本願寺蔵の『諸仏要集教』は、立派な写経料紙に書かれており、西晋元康6年3月18日(296年5月7日)の銘記がある。 製紙技術の伝来から100年程経過してから、本格的な紙の国産化が始まった。『正倉院文書』によれば、天平9年(737年)には、美作、出雲、播磨、美濃、越前などで紙漉が始まった。
日本での紙づくりの起源
紙づくりの伝来
紙の国産化 -奈良時代-
図書寮の設置
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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