和算
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それによって、西洋の天文暦算を解いた朝の梅文鼎の『暦算全書』や『数理精蘊』などの書が伝わり、暦学者や算学者の目にとまった。これらの書により、西洋数学の諸結果がもたらされ、対数三角法などあらたな分野に興味が開かれるようになった。

関孝和以後は荒木村英がその伝を継ぎ、さらにその弟子松永良弼がその流派を「関流」と称えるようになって、以降関流の算法は、他流派を抜いて大いに発達し、数学界にその権威を誇った。

松永良弼は関孝和や建部賢弘の研究を推し拡め、親友久留島義太の影響を受けながら、

円理

極数術 - 極大極小論

整数術 - ピタゴラス数など整数を作る問題

変数術 - 順列組合せ数学

廉術(逐索) - 帰納的な考えによる公式の導出法

などを確立させた。

久留島義太は、関流の門下ではなかったが、その天才によって独学で算術に達し、のち関流の中根元圭に才能を見出されてからは関流の数学を研究した。極数術、平方零約術(数の平方根の近似分数を求める方法)、円理や方陣の新研究など様々な独創あるいは工夫を編み出した。また枝葉の結果ではあるがオイラー関数ラプラス展開など西洋と同様のものを先駆けて出している。

中根・久留島・松永の三士に学んだ山路主住は、それらの伝を一身に集め、各家の業をまとめて流派たる関流を樹立した。弟子の教育に優れて、優秀な数学者を輩出した。

その弟子の有馬頼?は久留米の藩主でありながら数学に優れ数々の研究を遺している。また、関流の秘術が流派内に秘されて世にひろめられないことを嘆き、『拾?算法』において点竄術や円理の諸公式など、それまで関流の重要機密であった高等な算法の数々の問題と結果を刊行して世に公表した。

同じく山路の弟子の安島直円は、円理の伝授を受けるに先立って円理の新発明をなし、師の山路を甚だ驚かせた。その新発明とは、今でいう積分法の思想を以って円の形を長方形の集まりと考え、円あるいは弧背などの曲線の面積を求める術(計算法)を導き出す方法である。

またその方法を用いて、円柱に円柱を貫いた十字の形や、円柱から球を穿ち去った形の体積を求めるというような問題を初めて解き成した。この解法に安島は綴術を重ねて用いる二次綴術(二重積分)を用いる。積分思想と二次綴術と、ここにおいて安島は関孝和以降、円理に第二の革新をもたらしたのであった。

さらに安島直円は、綴術においてある数の数乗根を得る公式を得たり、独自に対数表の作成法を編み出したり、円や角形の接形問題に諸々の結果を得るなど数々の研究を遺した。

世間の数学界では、このころすでに遺題継承の風習は廃れてきていたが、一方、神社や仏閣に数学の問題を載せた額を掲げる、算額奉納の風習が盛んとなり、数学問題の競争は衰えることがなかった。

安島直円の親友であり同じく山路の弟子の藤田貞資(定資とも書く)は教育にすぐれ、問題集『精要算法』を著して世に名を轟かせた。

このころ世間の算術は、遺題継承、算額奉納などによって流行がきわまりながらも、一般でおこなわれる算術は、実用を遠く離れた問題や解く甲斐のない無闇に珍しかったり難しいだけの問題など、その内容の粗さが目立つようになってきた。

それを批判したのがこの著『精要算法』で、その凡例に記された「今の算数に用の用あり、無用の用あり、無用の無用あり。」という一言がそれを言い当てている。それぞれ、実用的で有益なもの、実用的でないが有益なもの、何の益にもならないものを言っているが、この書は「無用の無用」を排除するために良問のみを集めたとし、これがひとたび刊行されるや、良質な教科書として、数学者の間で一世を風靡した。

藤田貞資の研究に「変商術」がある。これは、二つ以上の解(解のことを商という)をもつ方程式において、答えとはならない方の解に意義を与え、その解が答えとなるような問題条件や図形などを示して、問題の変化を探る研究である。

東北の会田安明は、藤田貞資の門に入ろうとしたが、自身が掲げた算額を藤田から批判されたのをきっかけに言い争いを起こして対立し、ついに独自の一派『最上流』(郷土山形の最上川にちなむ。音読みでサイジョウリュウ。主に東北地方で栄えた。)を立ち上げ、関流に対抗した。

しかも若い頃の会田安明は、関流の算法や点竄術を知らずして、独自に天生法という点竄術と同等の術を発明していた。また生涯で二百冊もの伝書(流派用の教科書)や論文を成しており、その遺稿には見るべきものが少なくない。
江戸後期から明治維新

江戸時代も終わりに向かう頃には、和算はますます高度化し、新たな展開を見せ、担い手も拡大した。安島直円の門下から、教育に優れた日下誠が出ると、その門からもとても多くの秀才が輩出された。

和田寧は、安島の積分思想を円にとどまらず、角形や立体など様々な図形へと多岐におよばせて、「豁術」(積分法)を創出し、また、この術のための便利として「円理表」(積分の公式集)を作成した。ここにおいて和田は円理に第三の革命をもたらした。「極数術」(極大極小論)の研究では、関孝和の創出以来、あかされていなかった適尽法の理論を解き明かして、従来の方法を簡便にしさらにその応用もより複雑で幅広いものへと拡げたのであった(これは今でいえば微分法による導関数の導出に等しい)。また、新奇な問題として、円や角などの図形が他の図形の上でころがったときの軌跡について論じはじめ、これを皮切りに以後この問題は盛んに行なわれた。

和田の名はたちまち算家たちの間に広まり、既に数学で名を挙げているはずの有力者たちが、その業を授かるために入門しにくるほどであった。

同じく日下誠の門下の内田五観は十一のころすでにその才能をあらわし、わずか十八にして関流の宗統を継いだ秀才であった。洋学を高野長英に学び、天文や測量、地理にも優れて「瑪得瑪弟加塾」(マテマテカ塾)という塾を開いて教え多くの門下生を抱えた。

天文関係では明治期に大学出仕天文暦道御用係や星学局御用係として、太陽暦への改暦事業にも務めた。その名は各地に轟き、当時の算家たちに影響およぼすことが多かった。

長谷川寛もまた日下誠の門弟であったが、長谷川派として独立の一派を築き(一説には、わけあって関流から破門されたとも言う)、殊に教育の方面によく従事した。その著『算法新書』は、そろばんの初歩から天元、点竄、綴術、さらには和田の円理までをも惜しみなく載せて当時の算法を網羅し丁寧に解義した入門書であった。その他様々な算術の入門書を著して子弟を導き、その二代目長谷川弘においても図形の公式集や豁術の解義書などさまざまに数学の教育活動が行なわれた。

また、長谷川寛は新たに「極形術」と「変形術」というものを発明している。

「極形術」は、扱いづらい数や図形を扱いやすいもの(極形という。たとえば長方形や菱形なら正方形に、三角形なら正三角形直角二等辺三角形に、大きさが等しくないものは等しいものに)に置き換えて、問題を解きやすくするという術であり、「変形術」は図形の形を引き伸ばしたり回したりすることで形を変えて問題を解きやすくする術である。

これらによって、図形問題の解法は大いに簡略化されるかに見えたが、極形術にてはある問題においては正しく解けずに誤った答えが導かれると言う事態が起こった。いくらかこれに他の数学者たちから批判の声があがったものの、ついに修正改良されることを得なかった。他方、内田五観の門人法道寺善もまた形を変えて解くという同様の考えにより、接円の問題などにおいて円を直線に変えて解く、別の方法を編み出している(反転法に相当する)。

関の時代においては数学の担い手は、特に都市部の、幕臣や侍など身分の高い者が殆どであったが、江戸後期になると諸地方から、商家や農家などからも数学に達した者が多くあらわれて、低い身分や遠い地方の人でも高度な数学をたしなむ者が増えた。萩原信芳や剣持章行などがそれである。この要因のひとつとして、遊歴算家がある。日本の各地を歩きまわり、行く先々で数学の教授を行った数学者であり、主に山口和や剣持章行がいる。また通信教育もよく行われていて、これらは地方に数学をひろめることに大きな功があった。
明治時代以後

明治時代に入ると、西洋数学が本格的に導入が始まり、和算は衰退に向かう。便利さに於いても厳密さにおいても、また扱う問題の広さに於いても、西洋数学は和算よりも圧倒的に優れていた。しかし、和算が広く深く浸透していたこともあって、この交替は意外にも時間がかかる。

西洋数学の導入は、まず応用方面から始まる。海軍では西洋技術の習得のために洋算が教え込まれ、また、内田五観福田理軒といった和洋に通じる算家が測量や天文などの技術とともに門弟に教えていた。初期の「洋算家」には技術者など数学の専門家とは言えない者も多く、和算への批判は「応用に役に立たない」というものが主流であった。

西洋数学の台頭、その象徴的出来事は1872年(明治5年)の学制発布の際、時の政府が「和算を廃止し、洋算を専ら用ふるべし。」と決断したことである。しかし、初等教育における筆算さえまともに教えられる教師が不足していたために翌年、止むを得なく珠算のみ復活した。

和算が衰えることと洋算が振るわないことに憂いて柳楢悦神田孝平1877年(明治10年)、日本数学会の前身、東京数学会社を設立し、和算家洋算家問わず有力な算家をあつめて「数学」の振興に力をそそいだ。まだ和算が有力な時期であって、これには洋算家も和算家も多数参加しているが、むしろ和算家の方が数学力は優れた者が多かったという。そして、この頃になっても未だ、新たな和算書が出版されている。

しかし、和算から西洋数学へという流れは明確で、1884年(明治17年)に東京数学会社が日本数学物理学会に改組された頃には、西洋数学が和算を圧倒するようになる。

本格的な西洋数学浸透までの間、和算(又は和算家)は応用面においても近代化を支えた。

1873年(明治6年)の太陽暦採用の主役を務めたのは関流の有力な和算家、内田五観であった。福田理軒やその子息である福田半、また川北朝鄰のように測量で活躍したものもあった。

幕末・明治初めの技術官僚小野友五郎も和算家であり、咸臨丸の航路の計算には和算を用いたという。また、大工のための作図技術である規矩術は幕末期より和算の応用によって理論的に整備されたが、明治以降も引き続き研究が進み、しかも1887年(明治20年)頃のものでも和算の影響が濃厚である。その他、銀行、商業、運輸、保険、製糸、などさまざまな実業の現場でも珠算は用いられた。江戸期に続いて明治以降も初等教育で和算家は活躍し続け、現在の算数の鶴亀算などはその名残りだという。
和算研究

和算が存亡の危機に立たされるようになると、和算が忘れさられるのを恐れて和算史研究が起こった。遠藤利貞は、1877年(明治10年)に東京数学会社が設立された年より和算史研究を始め、20年かけて1896年(明治29年)、『大日本数学史』を出版する。これを受けて菊池大麓は和算取調所を設け、荻原禎助、岡本則録、三上義夫(前ふたりは元々和算家である)などがこれに努めた。1911年(明治44年)に東北大学が設置されると林鶴一もまた和算書の収集研究を行い、没後『和算研究集録』としてまとめられた。

藤原松三郎もまた、林鶴一の没を受けて晩年和算史研究に努めた。1940年(昭和15年)には、紀元2600年記念事業『明治前日本科学史』の企画の中で『明治前日本数学史』の編纂が藤原松三郎の手によって行われ、藤原の没後、ようやく1954年(昭和29年)にこれが出版された。


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