和田誠
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他、星新一丸谷才一の一連の作品や村上春樹の『アフターダーク』、三谷幸喜阿川佐和子作品を始め、数多くの装丁を担当する(この縁もあり、阿川や三谷とは交流があった)。

イラストレーターとしての仕事が知られる一方、『窓ぎわのトットちゃん』など、自身のイラストを用いないデザインも見られる(この縁から黒柳徹子とは交流があり、なかなかテレビ番組に出演しなかったが『徹子の部屋』には出演している)。

通常、書籍のバーコードは裏表紙のカバーに直接印刷されるが、これを嫌い、ISBNの数字のみが表示されたデザインを採り入れている[8]。結果、バーコードはに印刷されることが多い[8]

映画にも造詣が深く、1984年に角川映画として初監督作品である真田広之主演『麻雀放浪記』を手掛け、小泉今日子主演の『快盗ルビイ』など数作品でメガホンをとった。ちなみに、他分野出身の監督が第一、二作連続でキネマ旬報ベストテン入りを果たしたのは唯一である。監督業以外にも『お楽しみはこれからだ』等、映画がテーマのエッセイ集を出している。

1992年、伯父の山本紫朗に国内レビューの黄金時代を取材した内容をまとめた著書『ビギン・ザ・ビギン』をモチーフに、『日劇物語』を映画化する話がもち上がった。脚本を手掛け、クランク・イン寸前まで進んだが、資金不足のため撮影は中止された[14]

アニメーション作家としての実績もあり、1960年(昭和35年)に久里洋二柳原良平真鍋博が「アニメーション三人の会」を結成し、草月ホールで定期的に上映会を行っていた際に、横尾忠則手塚治虫等と共に参加し、個人制作の作品を発表した。1961年(昭和36年)NHKで放送開始の『みんなのうた』に参加し、初のアニメーション作品『誰も知らない』『ビビディ・バビディ・ブー』『ねこふんじゃった』を始め、他9曲の映像を製作した[1]。また、フジテレビ『ゴールデン洋画劇場』のオープニングタイトルを手掛けている[1]

2019年10月7日、東京都内の病院にて肺炎のため死去[15]。83歳没。

2020年3月、母校である多摩美術大学に約5万点の資料および作品が寄贈されたことを大学が公表[16][17]。アーカイヴ展示が行われている[18]

2021年12月17日、渋谷区立中央図書館に自著や装丁を手掛けた本、蔵書や本棚、打ち合わせに使用されたテーブルや椅子などが寄贈され、図書館4階に「和田誠記念文庫」が開設された[19][12]

2022年4月、ジャズなどのレコード365枚が、生前親交のあった作家の村上春樹の関連資料を収蔵する早稲田大学国際文学館村上春樹ライブラリー)に寄贈された[20]
名言

「人生の博打でいうと、イラストレーターという職業を選んだことかな?当時はまだそういう言葉はなかったけどね。」

受賞歴

1955年昭和30年)- 多摩美大在学中に興和新薬の蛙のカットコンクールで一等賞受賞[1]

1957年昭和32年) - 同じく在学中に『夜のマルグリット』のポスターにより日本宣伝美術会賞受賞[21]

1960年(昭和35年) - たばこの「ハイライト」のデザイン・コンペに入賞。

1961年(昭和36年) - 寺村輝夫作、和田誠画の『ぼくは王さま』で毎日出版文化賞を受賞[22]

1965年(昭和40年) - 短編アニメ映画『殺人 MURDER』により第19回毎日映画コンクール大藤信郎賞受賞。

1967年(昭和42年) - 和田がアートディレクターを務める雑誌『話の特集』が、アートディレクターズクラブによるADC賞(銅賞)を受賞[23]

1969年(昭和44年) - 「週刊サンケイ」などの表紙似顔絵[24]その他で文藝春秋漫画賞受賞。

1974年(昭和49年) - 似顔絵集『PEOPLE』で講談社出版文化賞(ブックデザイン部門)受賞。

1981年(昭和56年) - 講談社出版文化賞(さしえ部門)受賞。

1982年(昭和57年) - 『ビギン・ザ・ビギン』で角川書店日本ノンフィクション賞受賞。


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