和田誠
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1945年昭和20年)、精の失職に伴い3月に一家で精の実家である東京都世田谷区代田に転居。しかし、家族と一人離れて疎開した千葉県で敗戦を迎える。

東京へ戻り世田谷区立代沢小学校3年次に転入し、世田谷区立富士中学校[1]東京都立千歳高等学校[1](現・東京都立芦花高等学校)、多摩美術大学図案(現・デザイン)科を卒業[1][5]。『グレン・ミラー物語』(1954年)を観て、ジェームズ・ステュアートに似顔絵付きのファンレターを出して、返事で絵を褒められたのが絵を職業にしようと決心した理由の一つだという[6]

1959年(昭和34年)に広告制作プロダクションライトパブリシティデザイナーとして入社し、同年、日本専売公社が発売予定の新商品の紙巻きたばこハイライト」のパッケージデザインコンペに参加し、24歳の若さで勝ち抜き採用される[7]。同製品のデザインは、1964年開業の東海道新幹線の車体の色を決めるときに配色の参考にされた[7][8]

他にも自社のライトパブリシティ及び、社会党ロゴマークを手掛け[8]キヤノン東レといった国内有数の企業の広告デザインを長らく担当した後、1968年(昭和43年)退社。

1964年に灘本唯人宇野亞喜良山口はるみ横尾忠則らと東京イラストレーターズ・クラブを結成[1](70年解散)。

1972年、出会って10日で平野レミと結婚[9][10]シャンソン歌手としてテレビで歌うレミを見て、ひと目惚れしたのが始まり。当時レミとラジオ番組で共演していた友人の久米宏に紹介を頼んだところ、久米は「レミさんだけはやめた方がいいと思いますよ」と返したという[11][10]。1975年に長男・唱[10]、1979年に次男・率が誕生[10]。1978年には渋谷区に事務所、自宅を構えた[1][12]

1965年から1995年、矢崎泰久から声をかけられ、雑誌『話の特集』の創刊にかかわり、1995年の休刊までアート・ディレクターをつとめた[1][13]

退社後はフリーランスとなり、「週刊文春」の表紙や星新一著作の挿絵などを手掛ける。他、星新一丸谷才一の一連の作品や村上春樹の『アフターダーク』、三谷幸喜阿川佐和子作品を始め、数多くの装丁を担当する(この縁もあり、阿川や三谷とは交流があった)。

イラストレーターとしての仕事が知られる一方、『窓ぎわのトットちゃん』など、自身のイラストを用いないデザインも見られる(この縁から黒柳徹子とは交流があり、なかなかテレビ番組に出演しなかったが『徹子の部屋』には出演している)。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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