和田氏は近江国甲賀郡和田村(現在の滋賀県甲賀市甲賀町和田)の有力豪族で、甲賀五十三家のうち特に有力な甲賀二十一家[20]に数えられ、特に山南七家[21]とも称される家柄で、油日神社と深く関係していた。
初めは六角氏の被官であったが、惟政の父の代に13代将軍・足利義輝に仕える。天文22年(1553年)、三好長慶に追われた足利義輝が六角氏を頼って近江に逃れており、その時期に和田氏と足利将軍家の関係が生じて幕府の奉公衆化したと推定されている[8]。 ○出典:『寛政譜』[18]
家族
兄弟
維政(惟政)
定利
定教 - 八郎。兄・定利の討死後、その跡を継いだ。
子
維長(惟長) - 母は某氏
女子 - 山岡景信(美作守)の妻
脚注[脚注の使い方]
注釈^ 寛政重修諸家譜、諸家系図などによる没年齢42歳からの逆算。
^ ただし、この姉川の戦いに参加したとする記録は宣教師の記録にあるのみで、合戦の同日に摂津国内で惟政が出した寺社への禁制の文書(今西文書)が存在する事や、他の公方衆も参戦していない事などから、実際に参加したかどうかは疑わしい。ただ、永禄12年(1569年)10月の浦上攻め後から、元亀元年(1570年)3月まで信長関係の資料に一切登場しなくなるのは事実であり、信長と義昭の対立の中で一時存在を疎まれたのは事実のようである。
^ 彼を討ち取ったのは中川清秀とされる(『寛政譜』)。
出典^ a b 大阪府史編集専門委員会 1981, p. 438.
^ a b 東京帝国大学 1938, p. 783.
^ a b c d e 寛政譜 1923, p. 328.
^ 守山市史編纂委員会 1974, p. 240.
^ a b c d e f g “歴史アラカルト|12.和田惟政と高槻城
^ a b “山内のご案内