和田合戦
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これらの騒ぎで、義盛挙兵の流言飛語が飛び交い、鎌倉は騒然とした。

27日19日)、事態を憂慮した実朝は宮内兵衛尉公氏を義盛の屋敷へ送り、真意を問いたださせた。義盛は「上(実朝)に恨みはござらん。ただ相州(義時)の傍若無人の仔細を問いたださんがために若い者たちが用意しており、私は何度も諫めているのですが聞き入れようとしません。すでに一味同心しており、もはや私の力は及びません」と答えた。義盛は和田一族の他に、縁戚の横山党波多野氏、そして従弟で本家筋にあたる有力御家人の三浦義村と一味同心し、義村は起請文まで書いていた。

なお、『明月記』建暦3年5月9日条には、去る春に謀反(泉親衡の乱)を起こした者が結集しているとの風聞・落書があり、首謀者は義盛である。そこで義盛は自ら弁明し、実朝の許しを得た。しかし御所では義盛粛清の密議が行われていた。その動きを察した義盛はさらに兵を集め、謀反の計画を立てたとある。『愚管抄』には、義盛という三浦の長者が義時を深く妬んで討とうとしたが、それが露見したので挙兵したとあり、『保暦間記』には義盛の息子たちが頼家遺児の擁立を謀り、義盛もそれに同意したことから合戦となったとしている。
将軍御所襲撃

『吾妻鏡』によると5月2日23日)、義盛の隣家の八田知重から、義盛の館に軍兵が集まっていると大江広元に通報があった。酒宴の最中であったが広元はひとり座を立ち急ぎ御所へ参じた。次いで、三浦義村から義時へ義盛挙兵の報告が入る。義村は弟の胤義と相談の上で御所の護衛を決断。この時、義時は囲碁を打っていたが、騒がずに烏帽子、装束を改めて御所へ参上。御所では義盛らが攻撃を仕掛ける気配はあるが、すぐにではないだろうと兵の備えをしておらず、慌てて尼御台政子と御台所(実朝夫人)鶴岡八幡宮へ避難させ、大倉御所の警護を采配した。

申の刻(16時)、義盛ら和田一族は決起し、150騎を三手に分けて大倉御所の南門、義時邸、広元邸を襲撃した。義時邸は残っていた兵が防戦し、広元邸には客が残って酒宴を続けていたが、和田勢がその門前を通り過ぎていった[1]。政所の前で合戦となり、波多野忠綱や幕府側へ寝返った義村が来援して和田勢を防戦している。

酉の刻(18時)、和田勢は大倉御所を囲んで一斉に攻めよせ、警護の武士と攻防になった。和田勢で最も奮戦したのが義盛の三男・朝比奈義秀で、義時の息子北条泰時朝時兄弟と足利義氏が御所を守るも、義秀は惣門を打ち破って南庭に乱入し、幕府方の武士を次々に斬り倒した。『吾妻鏡』は義秀の奮戦を「神の如き壮力を明らかにし、彼に敵する軍士に死を免れる者無し」と称賛している。義秀は御所に火を放ち、御所が炎上する中で実朝は辛うじて頼朝の法華堂へ脱出した。

義秀は従兄弟の高井重茂など防戦する幕府の武士を次々討ち取り、朝時・義氏や武田信光も蹴散らしたが、泰時が踏みとどまって戦い、日が暮れる頃までに幕府方には新手が次々に加わり、和田勢は矢種も尽き、人馬も疲労して退き始めた。義氏ら幕府軍は勝ちに乗じて攻めかかり、剛勇な義秀をはじめとする和田勢がこれを必死に防いで由比ヶ浜へ退却した。

一方『明月記』によると、広元が御所に駆け付けた際、実朝は酒宴をして酔っぱらっていたが、広元とともにこの時点で法華堂に逃れている。また義村は義時にではなく、直接御所に赴いて義盛の挙兵を密告しており、政子と実朝正室も広元と義村の知らせで脱出しており、山本みなみは『吾妻鏡』が義村の貢献を義時に書き換える曲筆を行ったとしている[2]。さらに『明月記』は義村と義盛はそれ以前から対立関係にあったとしており、山本は義村が当初から北条氏側に内通していた可能性が高いとしている[3]
和田一族の滅亡

夜が明け始めた翌3日24日)寅の刻(4時)、由比ヶ浜に集結していた和田勢の元に横山時兼らが率いる横山党の3000余騎が参着、和田勢は勢いを盛り返した。時兼と義盛はもともとはこの日を戦初めと決めていたので、時兼はこの日になって到着したのだった。

辰の刻(8時)、曾我中村・二宮・河村などの西相模・伊豆の御家人たちの軍勢が武蔵大路から稲村ヶ崎に陸続と現れた。彼らはどちらが官軍かわからず、将軍実朝の御教書を求めたため、大江広元が将軍実朝の名の御教書を作成させ、使者を送り、浜辺の軍勢に示させた。御家人たちは帰趨を明らかにして、一斉に幕府方につく。また千葉成胤も一族を引き連れて幕府方に馳せ参じた。

巳の刻(10時)、和田・横山勢は再び鎌倉に突入、北条泰時・時房(泰時の叔父)らが守る若宮大路を中心に市街各所で激戦となった。ここでも義秀が奮戦し先頭に立って突撃し敵を追い散らす。実朝の下に泰時より「多勢の恃み有るに似たりといえども、更に凶徒の武勇を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか」との報告が届く。驚いた実朝は政所に向かった広元を召すと、願書を書かせそれに自筆で和歌を2首加え、八幡宮に奉じる。やがて新手を繰り出してくる幕府軍に対して和田・横山勢は次第に疲弊し数を減らしていき、土屋義清が討ち取られた。

酉の刻(18時)には、義盛の愛息義直が討ち取られ、悲嘆した義盛は「今は戦う甲斐もなし」と声をあげて大泣きした。そこへ大江義範の郎党が襲いかかり、義盛は討ち取られた。息子の義重、義信秀盛も討ち死にし、横山党も潰走して勝敗は決した。常盛、時兼らは甲斐に逃れたがそこで自害した。義秀も戦場を脱し、船6艘、兵500騎とともに安房へ逃れたと伝えられる。朝盛も生き延びて京に逃れ、朝盛の子佐久間家盛はやはり安房へ逃れた。

なお『明月記』では来援した千葉勢が退却する和田勢を横大路まで追い、逃げてきた和田勢の前に三浦勢が立ちふさがって大いに打ち破ったとしており、藪本勝治や山本みなみは合戦においては千葉成胤と義村の軍勢の活躍が大きかったが、『吾妻鏡』は泰時の功績を強調する曲筆を行っているとしている[4][5]
戦後

合戦後、固瀬川(境川)に梟された和田一族の首級は234にのぼった。義時は山内荘、美作守護を手に入れ、広元は武蔵横山荘を与えられた。義時は義盛に代わり侍所別当を兼任し、それまで兼任していた政所別当と併せて幕府の実権を掌握し、執権体制の確立に努める。

事件の発端となった泉親衡の乱については、逃亡した親衡が行方不明となり幕府が真剣に捜索した形跡も見られないため、義時の挑発による事件であったとも言われる[6][7]。一方で、さほど有力な御家人でもない親衡が鎌倉で300人以上の武士を集めていることから、親衡の陰謀事件の黒幕は義盛、もしくは義盛の子や孫の世代の和田一族とする説もある[8][9]


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