1994年には俳優養成学校「ザ・ドラマ・スクール」を開校。
ヘビースモーカーとしても知られており、たびたびマスコミを通して議論を呼ぶことがあった。愛煙していた煙草はマールボロ。
2002年11月に東京都内の私立大学のゼミの講師として招かれた際、女子大生に猥褻行為をしたとして提訴され、控訴審まで争うも2004年に敗訴が確定した。この訴訟で和田は女子大生が名前を出さない限りコメントしないと、新聞各社の取材に応じた[11]。
2004年、これまでのテレビ生活をまとめた著書『テレビ自叙伝-さらば、我が愛-』を出版。
2011年1月14日、食道上皮がんのため神奈川県川崎市の老人福祉施設で死去。80歳没[1]。がんと診断されても手術や延命治療を行うことなく、約3年間病院や老人福祉施設で闘病生活を送っていた。没後、古巣のNHKは追悼番組として、1月30日にNHK総合テレビのNHKアーカイブス枠で『追悼・和田勉?ドラマ“天城越え”?』を放送した[12][13]。 大阪放送局時代に、京都市立美術大学の3回生だった恵美子(ワダ・エミ)と知り合い結婚した[14]。和田はエミに「オレの作ったドラマ以外はつまらん」と断言していた。このため彼女の見るドラマはオール和田作品だった[15]。 ※制作局がないのはNHK
家族
主な作品
テレビドラマ
テレビ劇場
春の雷(1959年)
その男(1959年)
日本の日蝕(1959年、NHK大阪)☆第14回芸術祭奨励賞受賞[注 2]
自由への証言(1960年)
土の眼(1961年)
人命救助法 おぼれる者は(1961年)
リバイバルドラマシリーズ その男(1962年)
一匹(1963年)
城の風景(1963年)
鋳型(1963年)☆第18回芸術祭奨励賞受賞
大市民(1966年)
文五捕物絵図(1967年)
小さな世界(1967年)
大河ドラマ / 竜馬がゆく(1968年)
一の糸(1969年)
朱鷺の墓(1970年)
鹿鳴館(1970年)
風の中の女(1971年)
満開の時(1971年)
挽歌(1971年)
針女(1972年)
天草の雅歌(1972年)
桃から生まれた桃太郎(1972年)
金色夜叉(1973年)
出会い(1973年)
あかあかと(1975年)
土曜ドラマ
遠い接近(1975年)
中央流沙(1975年)
愛染かつら(1976年)
花に棲む(1976年)
閃光の遺産(1977年)
棲息分布(1977年)
最後の自画像(1977年)
優しい時代(1977年)
鎌田敏夫シリーズ / 十字路 第一部第3話「沖縄編 自由」(1978年)
天城越え(1978年)
火の記憶(1978年)
阿修羅のごとく(1979年)
阿修羅のごとく パートII(1980年)
価格破壊(1981年)
けものみち(1982年)
波の塔(1983年)
堂々たる打算(1976年)
斑鳩の白い道の上に(1976年)
ザ・商社(1980年)
勇者は語らず いま、日米自動車戦争は(1983年)
文楽 夏祭浪花鑑 (1983年)
女殺油地獄(1984年)
心中宵庚申(1984年)
脱兎のごとく 岡倉天心(1985年)
おさんの恋(1985年)
但馬家のお夏(1986年)
夜明け前(1987年)
木曜ゴールデンドラマ / 江夏八重子の生涯(1988年、KTS)
月曜ドラマスペシャル / 鏡の中の女たち さよなら鏡子(1992年、TBS)
映画
ハリマオ(1989年)
完全なる飼育(1999年)
出演
テレビドラマ
TRICK2 episode1 第1話 - 第3話(2002年1月11日 - 25日、テレビ朝日)- 松乃上孝雲(和田弁天の住職)
バラエティ
笑っていいとも (1987年10月 - 1988年9月、フジテレビ)※毎週月曜日出演
ボキャブラ天国 (フジテレビ)VTR出演、コーナーレギュラー。
ラジオ
堂々! 天下御免(ニッポン放送)
CM
日産・セフィーロ(1988年初代・ティーザー広告)
日立製作所
月桂冠 ザ・カップ200(1995年)
日清食品 spa王・出前一丁
春日井製菓 炭焼珈琲キャンディ
日本農産工業 ヨード卵光のたまごスープ
著書
『演技と人間 テレビジョンの思想』1970年、毎日新聞社。
『地中海人間』<NHK海外シリーズ> 1975年、日本放送出版協会。ISBN 4140020733。
『ドラマ人間テレビ語り』1980年、講談社。 ISBN 4061168614。
『和田勉のおしゃべりスタジオ ズーム・アップで「舌戦」十番』1981年、PHP研究所。
『いい仕事ができる奴 テレビ怪物の発想法』1984年、ベストセラーズ。ISBN 4584005621。