和田アキ子
[Wikipedia|▼Menu]
□記事を途中から表示しています
[最初から表示]

和田 アキ子(わだ アキこ、1950年昭和25年〉4月10日[1] - )は、日本歌手タレント司会者、女優ラジオパーソナリティ。所属芸能事務所は株式会社ホリプロ(在籍期間は女性タレント及び全体で最長)。所属レコード会社はユニバーサルミュージック

血液型はO型。本名は飯塚 現子(いいづか あきこ、旧姓:和田)。在日韓国人として出生し、その後日本へ帰化。帰化前の本名は金 福子(キム・ポクジャ、? ??)で、通名は金海 福子(かねうみ ふくこ)[2]

愛称はアッコ(さん・ちゃん)、アコ(さん・ちゃん)、ゴッド姉(さん・ちゃん)。
略歴
幼少期

天王寺区にある大阪市立真田山小学校を卒業後、私立城星学園中学校へ入学。そのまま私立城星学園高校に進学するも父親が勝手に退学届けを出したため、在学期間はわずか2、3日間で中途退学となった[3][4]

小学5年生の頃に洋楽に憧れ、15歳の頃からジャズ喫茶やゴーゴークラブで歌い始める。174cm(デビュー当時)の長身から発せられるパワフルな歌声は評判を呼び、ホリプロ(当時の社名は「ホリプロダクション」で、小規模事務所だった)社長・堀威夫直々にスカウトされる。当時はグランプリズ(夏夕介が在籍)というバンドを組み、大阪神戸三宮で活動していたが実際にデビューできたのはボーカルの和田とオルガンの夏のみであった。芸名の「アキ子」の「アキ」がカタカナなのは、本名の「現子」が普通に読めないため、当時のホリプロの社長が付けた。本名は当て字である(詳しくはこちらを参照)。
芸能活動

デビュー当時のキャッチ・コピーは「和製リズム・アンド・ブルースの女王」[5]

1968年昭和43年)10月25日、「星空の孤独」でレコードデビュー[6]1969年4月25日(昭和44年)、2枚目のレコード「どしゃぶりの雨の中で」が17万枚のスマッシュヒットを記録する。

1970年(昭和45年)、20歳になり『女番長・野良猫ロック』(日活)で映画初主演を果たす。同年、「笑って許して」でNHK第21回NHK紅白歌合戦』に出場し、『NHK紅白歌合戦』初出場を果たす。紅白にはこれを含めて通算39回出場し、紅組司会を計3回、紅組トリを計7回(うち1回は大トリ)を務めた(2023年時点。紅白について詳しくは、後述)。

1972年(昭和47年)、「あの鐘を鳴らすのはあなた」で第14回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。1973年(昭和48年)から日本テレビ金曜10時!うわさのチャンネル!!』に出演し、番組内で「ゴッド姉ちゃん」[注釈 1]と呼ばれて人気を博した。以後、歌手業を続けながら様々なバラエティ番組にレギュラー出演した他、多数の冠番組などで司会者としても活躍。

32歳の時に子宮癌により子宮を摘出し、この時は子供が出来なくなったショックで、神様を呪ったとのこと[7]

1985年(昭和60年)10月、生放送のバラエティ番組・TBSアッコにおまかせ!』が放送を開始し、以後長年に渡り司会を担当(2024年現在)。

1987年度(昭和62年度)の日本女性放送者懇談会賞(現:放送ウーマン賞)を受賞した[8]

2005年(平成17年)7月13日付のオリコンチャートm-floとのコラボレーション作品「Hey!」が初登場9位を記録し、自身33年ぶりとなるTOP10入りを果たす。

2008年(平成20年)、競艇日本モーターボート競走会)のイメージキャラクターとなる。同年9月29日にはデビュー40周年記念として、ニューヨークアポロ・シアターで、日本人・東洋人のソロ歌手としては初となる単独公演「40th Anniversary Concert "Power&Soul"」を行った。

2021年(令和3年)4月より、所属レーベルをこれまでのテイチクエンタテインメント / ユニオンレコードからユニバーサルミュージックに完全移籍。年内に新作のオリジナルアルバムを発売予定であることも発表された[9][10]
人物
出身

大阪府大阪市天王寺区舟橋町[注釈 2]朝鮮系日本人であり、帰化時の官報では1949年(昭和24年)生まれとなっている。使用言語は、大阪弁を中心とした関西弁であり、標準語を使用することもある。

済州島出身者の父と、朝鮮半島出身者の母を持つ在日韓国人2世で、当時の本名は金福子、通名は金海福子だった。4人兄弟の長女で、下に3人の弟がいる。父は柔道の師範で大阪環状線鶴橋駅の近所にある自宅で柔道場「金海道場」を開き、母は乾物屋を営んでいた[2]。『週刊文春』のインタビューで、「『自分は日本人ではない』と知ったのは中学生の頃。区役所に行って分かった」と語っている[11]

芸能界デビュー時に、在日韓国人だと分かる名前をまずいと思った父親が、既に帰化していた和田の叔父の養子にしてもらい、同時に名前も「現子」と改名して「和田現子」となり、本人も日本に帰化した[11]
学生時代

父親は柔道の道場を開いており、和田の持ち前の大きな体もあり、中学1年生の頃すでに柔道初段だった。父親は礼儀作法・しつけに厳しく、全てのことは男性優先で男尊女卑、父の前では正座・敬語を使わなければいけないなどの厳しい家庭環境で、まだ小学生だった和田を殴りつけるなど、たびたび鉄拳制裁・暴力を加えられることもあった[注釈 3]。当時の楽しみは、弟たちとホームドラマを観ることだった[12]

中学からミッションスクールに進学した[12]が、上記の理由により父を憎んで反発[2]。中学2年生の頃には不良番長として子分を従えて歩き、飲酒・喫煙を繰り返し、大阪ミナミの繁華街を縄張りにし「 ミナミのアコ 」と呼ばれ恐れられていた[3][11]

その後エスカレーター式に高校に進学したが、3日目に父に「お前のような不良がいると学校の迷惑になる」と、退学届を勝手に出されて中退[12]。この行為に我慢できず、憂さ晴らしに不良仲間とミナミなどに訪れては、他の不良たち相手にケンカを売ったり買ったりの日々を送る[12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:321 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef