和服
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もっともこの小袖が現代の着物のベースとなっていく。

鎌倉時代後半や室町時代以降になると、公家階級の弱体化が極に達し、さらに元々が平民に近い[注釈 2]武力集団である武士達が上流階級化することによって、従来の豪華な上衣がなくなっていき、最下層衣として着られていた小袖が表に現れ、庶民の間での小袖と一体化し、室町時代にはもっともシンプルで現代の着物のベースとなる小袖が生まれたと言える[9]。小袖に袴をつけたいわゆる小袖袴はこの時代略装として扱われ、後に正装となる[13]。例えば現代の男性向けの着物と言える羽織袴は、小袖袴に羽織をまとったものである[14]。また、ついには上流階級でも袴を取り去ってしまうようになり、上流下流問わず小袖の着流しは一般的な略装となっていく[15]

江戸時代に入ると、太平の世に伴い女性ものの小袖もより多様な絵柄がついたり形状が変化したりと需要に応じて華やかに変化していく。袖丈が伸び、帯は長大化し、着崩れ防止のために歌舞伎で使われていた帯締めの転用により、現代みられる振袖となった。これらの経緯から現代の一般的な着物に至る。
縄文時代・弥生時代

縄文時代の身体装飾については石製や貝製の装身具などの出土事例があるが、衣服に関しては植物繊維などの有機質が考古遺物として残存しにくいため実態は不明である。ただし、編布(アンギン、縄文期独自の編み物)の断片やひも付きの袋などの出土事例があり、カラムシ(苧麻)・アサ(麻)などの植物繊維から糸を紡ぐ技術や、できた糸から地を作る技術はあったことがわかる。この編布から衣服が作られて着られていたと推測されている。

縄文時代には人形を模した土偶の存在があるが、土偶の造形は実際の身体装飾を表現したとは見なしがたい抽象文様で、実際の衣服の実態をどの程度反映しているかはっきりしない。

弥生時代の衣服についても、出土事例は少なく、『魏書』東夷伝の一部の「魏志倭人伝」によって推測されているのみである。魏志倭人伝の記述によると、倭人の着物は幅広い布を結び合わせている、男性は髪を結って髷にしているとある。
古墳時代・飛鳥時代

古墳時代豪族たちの墳墓から発掘される埴輪は、当時の服装を知る貴重な資料である。古墳時代の日本人の服は男女ともに上下2部式であり(つまり、現代の洋服の「トップス」と「ボトムズ」のような上・下の構成であり)、男性は上衣と ゆったりしたズボン状の袴で、ひざ下をひもで結んでいる。女性は上衣と喪(裾の長いロングスカート)の姿である。襟は男女ともに左前の盤領(あげくび)という詰衿形式が多い。これらの服装は貴族階級のものと推測される[16]

日本書紀』によると、603年に、聖徳太子が、優れた人を評価する冠位十二階を定めて、役人の位階によっての色を定めている。これより上層階級は、の衣服令に従って中国大陸の漢服を模倣することになる[17]

7世紀末ごろに、国号が日本と決められた。7世紀末から8世紀初めに作られた高松塚古墳の壁画が1972年から研究された。飛鳥時代の人々の姿が描かれたもので現在も残っているのは、高松塚古墳の壁画だけである。その壁画の一部に描かれていた男子と女子の絵と、『日本書紀』の記述が、飛鳥時代の衣服の考古学上の資料である。現在の研究者達の報告によると、高松塚古墳の壁画の人物像では、男女ともに全ての衿の合わせ方が左衽(さじん)、つまり左前だったという。その壁画では、上半身を覆う服の裾が、下半身を覆う服と体の間に入っていないで、外に出て垂れ下がっているという。その壁画に描かれた服の帯は革でなく織物ではないかと推測されている。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

高松塚古墳の女子群像

高松塚古墳

奈良時代「天平衣装」も参照

奈良時代の服飾は中国大陸の漢服の影響を受けているとされ、意匠的に似ている部分が多い[18][19][20][21][22]。前合わせで帯を締める構成が基本となっているなど、基本的な構成にも似た部分がある。唐の礼制は日本の有職故実の一つの要素であった。

701年に日本で制定された『大宝律令』と、『大宝律令』を改めて718年に制定された『養老律令』には、衣服令が含まれていた。『大宝律令』と『養老律令』は現存していないが、『令義解』、『令集義解』から『養老律令』の内容が推定されている。

衣服令では朝廷で着る服として、礼服(らいふく)[注釈 3]朝服(ちょうふく)、制服が定められている。礼服は、重要な祭祀、大嘗祭(おおなめのまつり,だいじょうさい)、元旦のときに着る服である。朝服は、毎月1回、当時朝庭と呼ばれた場所で朝会と呼ばれるまつりごと。[注釈 4]をするときと、当時公事と呼ばれたことを行うときに着る服である。制服は、特別な地位にない官人が朝廷の公事を行うときに着る服である。

礼服・朝服・制服の形式・色彩は、それぞれの地位や役職によって違いがある。武官の礼服と朝服の規定に、位襖(いおう)が含まれており、研究者達により、位襖は、地位によって違う色を使った襖(おう)であることが分かっている。『古記』によると、襖とは、襴(らん)がなく、腋線を縫わない服で、後の時代の闕腋の袍(けってきのほう)と呼ばれる服と共通点がある。武官の朝服には、ウエストを固定するための革のベルトがあったと考えられている。


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