打楽器の歴史は古く、日本での太鼓の歴史は紀元前500年頃に遡る[1]。
日本神話の天岩戸の場面でも桶を伏せて音を鳴らしたと伝えられている。長野県茅野市にある尖石遺跡では、皮を張って太鼓として使用されていたのではないかと推定される土器(有孔鍔付土器)も出土している。群馬県佐波郡境町の前橋天神山古墳から「太鼓を打つ人物埴輪」像が出土し、古墳時代(3世紀末から6世紀)には日本に太鼓が存在していたことがわかっている[8][9][1]。
中世に入ると、田楽などの発達などによってお囃子太鼓が隆盛した。戦国時代になると、戦国大名達が自軍の統率をとるために太鼓を利用した陣太鼓
[10](武田信玄の御諏訪太鼓21人衆等)が興る。江戸時代には祭礼行事の伴奏としての太鼓演奏のほかに、太鼓好きが集まって太鼓を打つ「のら打ち」なども行なわれ、昭和初期(1930年代)には太鼓の技術や芸を競う太鼓打ち競技会なども現れた[11]。1943年には小倉祇園太鼓が登場する映画『無法松の一生』がヒットし、クライマックスの太鼓打ちシーンが人々に強い印象を残し、その後何度もリメイクされるほど人気を博した。また、温泉地などで観光客向けに地元の太鼓を披露するようにもなった[11]。第二次大戦後の1951年に、明治時代に途絶えていた御諏訪太鼓が小口大八によって復元された際に、多数の太鼓だけで演奏する組太鼓スタイルが考案され、1970年代以降、創作和太鼓の鬼太鼓座、鼓童といったプロの組太鼓集団の出現と流行をきっかけとして、各地にアマチュアの和太鼓グループが無数に誕生し、バブル期のふるさと創生一億円事業や宝くじ助成金などの経済的支援を背景に、町おこしや青少年の育成などに和太鼓が用いられる一方、和太鼓集団の海外公演を通じて欧米をはじめとする世界中に知られるに至った[9][11]。 雅楽では管弦に用いる楽太鼓と、舞楽で用いる大太鼓(だだいこ)とがある[12]。舞台の正面に構えられる。楽節の終わりごとに太鼓の一撃が入り、楽曲全体を統率する重要な要素である。また見た目も支柱の漆塗りをはじめ本体にも色とりどりの装飾が施されている。外側を朱色の火炎が取り巻いていることから、火焔太鼓とも呼ばれる。 神道では古くから太鼓が多く用いられた。神楽(囃子)などにその一端が見られる。単体での演奏の他、篠笛などと組み合わせる演奏も多く見られる。仏教では、法華宗・日蓮宗の団扇太鼓以外では、真言宗などで、護摩焚きの時の般若心経などの読経時に太鼓を使う(法楽太鼓)他は、もっぱら木魚(法華宗・日蓮宗では木柾)と鈴が使われるが、大規模な行事には銅鑼や鉦鼓などと一緒に太鼓が用いられる。 このほか仏教と神道の境界が曖昧である農村信仰として、田楽やイタコの口寄せ(交霊)にも太鼓が使われることが多い。 江戸時代、歌舞伎が隆盛すると、下座音楽に使われ、効果音として取り入れられた。下座音楽における太鼓の使用方法は、打ち方によって表現する情景が高度に体系化されている。例えば細めの桴で細かく叩くと雨の音、布を巻いた桴で弱く柔らかい音を低く響かせると雪の音、それらの合間に別の桴を水平に宛て、鼓面の震えを拾ってビリビリという音をたてると雷や雪崩の音を表現するといった具合である。また幽霊の出現など、本来ありえない音響を抽象的に表現する場合にも用いられる。 戦後になってから、長野県の御諏訪太鼓がジャズドラムを参考にして、大小の太鼓をドラムセットのように組み合わせた「組太鼓」形式を開発した[13]。音程がある楽器を基本的に使わない複式複打法の組太鼓が誕生した。 1950年(昭和25年)、日本で初めて舞台興行を目的とした「福井豊年太鼓みどり会
芸能、音楽としての太鼓文化交流の一環として、外国軍の前で和太鼓の演奏を披露する陸上自衛官舞楽「抜頭」の演奏。左奥に楽太鼓が見られる
雅楽
歌舞伎
組太鼓
新しい和太鼓時代の到来(祭り太鼓から舞台演奏へ)
創作和太鼓隆盛の時代へ詳細は「創作和太鼓」を参照
舞台興行太鼓の誕生
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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