和の文化
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しかし、第二次世界大戦後に国家神道は国家覇権の手段となったとされ、GHQの指示により神道は政治・教育と分離されて他の宗教と同列の信仰としての位置づけがなされた。仏教も「葬式仏教」と揶揄されるほどに宗教としては形骸化する傾向があり、日本人の日常の生活意識から、神道と仏教を中心とした文化的価値観は薄れてきている。

明治維新によって西洋思想に圧倒されたが、宮中の保守的な漢学者の影響によってその思想が教育勅語などに取り入れられた。

純粋な宗教的価値観の具現化でないとしても、古来からの神道が礎となってその上に仏教・密教や儒教や道教、あるいはキリスト教[注釈 6] をも含め、さまざまな外来の宗教を混在させながら、今日ある日本の精神や文化の土壌は形成された。これらの宗教混在に基づく価値観は日本の風俗習慣、文化に深く根ざしており、祭礼伝統芸能武道農業林業水産業建築土木正月七五三など、さまざまな場面に影響を及ぼしており、神道を主体とする宗教を抜きにして日本の文化や精神の本質は語れないという側面がある。

現代世界が抱える諸問題において、このような日本的な宗教的価値観が有効とされる場合もあり、これを方法論としてみた場合、たとえば「里山」あるいは「鎮守の森」の文化や「もったい(物体)ない」の考え方は環境保全に対し、「大豆文化(倹約、醸造神事)」の伝統は食糧危機に対し、問題の解決を示唆する可能性もある。いっぽう、急峻な地形と多雨により水の豊富さによって「すべてを水に流す」ともされてきたが、水質汚濁による環境問題や資源保全の観点から、その言葉の意義は薄れてきている。

伝統芸能や伝統のスポーツ、あるいは日常生活におけるお辞儀・礼儀作法・食事作法などにおいて、広範に見られる特徴として「(形)」の尊重という点が挙げられ、日本の美点ともされてきた。これらにはあらゆるところから取り入れてきた道徳(各学問からの影響が大きい)の影響や、人と衝突するのを避け和を尊ぶという心性から、無言の内に相手への敬意・配慮の念が込められていることも多い。近年では生活様式の欧米化により「エチケット」や「マナー」などに置き換えられ、これらの日本の伝統的な規範意識の形骸化を憂慮する声もある。
歴史縄文中期の火焔土器、東京国立博物館蔵法隆寺(7世紀創建)東大寺南大門金剛力士像(1203年)姫路城(1601-08年)復元された帝国ホテル旧館の玄関部分(博物館明治村
先史

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旧石器時代から日本全国に人々の定住の痕跡のある遺跡が発見されている。縄文時代では南方系縄文人、北方系縄文人で文化に差異が見られる。

日本という島国の特性上、多様な民族の渡来があったと考えられ、蝦夷隼人熊襲土蜘蛛など、和人とは異なった文化を持った少数民族と思しき集団も見受けられる。こうした民族も同化していき、当時先進であった中国や大陸の文化も受け入れながら、日本土着の文化と混和融合しながら根付いていったものと思われる。

該当する文化: 旧石器文化縄文文化弥生文化・前期古墳文化
古代

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前漢の時代頃から中国の王朝に積極的に朝貢し初め、先進文化国だった中国の文物を受け入れるようになった。金属器刀剣類など)や漢字仏教などがその代表である。後には遣隋使遣唐使が派遣され、留学生が先進文化を学び、日本に持ち帰ってきた。こうして日本固有の文化の上に外来の文化が取り入れられていった。

9世紀半ばの承和年間の派遣をもって遣唐使が途絶し、894年に遣唐使が計画されたものの菅原道真の意見で中止になった。それ以降は、中国の文物(唐物)や文化などは中国人海商によってもたらされるようになり、貴族社会で唐物は珍重され続けた。それと同時に、外国からの影響が日本独自に消化されてゆき、「国風文化」時代を迎えた。貴族の女性の間で漢字からかな文字が生まれ、源氏物語枕草子に代表される和歌や物語、日記文学など文芸が盛んになった。芸術の分野でも、法隆寺唐招提寺の建築には中国などの影響が強く見られたのに対して、宇治平等院では日本人好みの表現になっている。こうした文化様式を和様と呼ぶ。

該当する文化: 後期古墳文化飛鳥文化白鳳文化天平文化弘仁・貞観文化国風文化院政期文化
中世武士) 1860年。

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古代末から中世に武士が台頭してくると、貴族は地位を追われた。中世から現代に至る日本文化の特徴として、貴族文化の薄さが指摘される[1]。代わって権力をった武士により、流鏑馬、犬追物など武士特有の文化が生まれ、合戦をテーマにした軍記物語平家物語など)も生まれた。彫像も、力強い肉体を持った物へと代わっていった(金剛力士像等はその代表といえる)。都や農村では猿楽田楽などの舞踊が発達した。平清盛との貿易以降、日宋貿易が盛んに行われた。この時代には禅宗僧の往来がしきりで、禅宗とともに持ち込まれた文化(精進料理水墨画、喫茶の習慣など)はその後の日本文化の発展に大きな影響を与えた。天竜寺船勘合貿易により中国との往来は絶えることはなく、銅銭が大量輸入され、唐物が珍重された。室町時代は戦乱の世であったが、東山文化の時代を中心にして、猿楽茶の湯・書院(書院造)などが発展し、今日「日本的」といわれる文化の多くがこの時代に創られた。

該当する文化: 鎌倉文化室町文化北山文化東山文化
近世

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