味噌の起源には二つの説がある[7]。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
古代中国伝来説古代中国の醤を根源とし、遣唐使により中国大陸を経て伝来したとされる説[8]。
語源も『未だ醤にならないもの』という意味の未醤から平安時代に味醤、味曽、味噌となった。701年の大宝律令に未醤が課税対象としてあらわれ、「主醤」という醤を管理する役職の記述もある[7]。
日本独自説日本の味噌の原型は歴史が古く、弥生時代からとする説もあるが、豆を用いた現在の味噌とは違う液体状のもので、魚醤に近い[9]。日本においては縄文時代から製塩が行われ、醤(ひしお)などの塩蔵食品が作られていたと見られる。縄文時代後期から弥生時代にかけて遺跡から穀物を塩蔵していた形跡が見つかっている[7]。古墳時代からは麹発酵の技術を加えたものとなった。
奈良時代以降
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現在の味噌の起源に連なる最初は、奈良時代である。当時の文献に「未醤」(みさう・みしょう:まだ豆の粒が残っている醤の意味)と呼ばれた食品の記録がある。また「末醤」とも書かれ、「大宝令」(大宝元年(701年))の「大膳職」条では「末醤」と記される。他に味醤、美蘇の字もすでに見える。藤原京(700年前後)の遺跡からは、馬寮(官馬の飼養などを担当する役所)から食品担当官司に醤と末醤を請求したものとして、表は「謹啓今忽有用処故醤」、裏には「及末醤欲給恐々謹請 馬寮」と書かれた木簡が発掘されている[10]。この未醤、あるいは末醤が、やがて味醤、味曽、味噌と変化したものであることは、「倭名類聚抄」(934年頃)や「塵袋」(1264-1287年頃)という辞書に書かれている。この当時の味噌は、調味料というよりは豆やその他の穀物を塩漬保存した保存食であり、つまんで食べられた。徒然草にある、北条時頼と北条宣時が、台所に残っていた味噌だけを肴として酒を酌み交わしたという逸話は、このような時代背景によるものである。大豆を原料とした調味料としては、当時は塩辛納豆が主に使われた。鎌倉時代に中国大陸からすり鉢がもたらされると、粒味噌をすり潰して水に溶かして用いる味噌汁という調理法が実践されるようになった。味噌が保存食から調味料へと性格を変えるのは、味噌汁の普及による所が大きい。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
室町時代
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室町時代になると、各地で味噌が発達した。戦国時代には主に糠が原料とされたが、兵糧(陣中食)として重宝され、加工品の芋がら縄も含め、兵士の貴重な栄養源になっていた[11]。その名残は、朴葉味噌などとしても伝わっている。各地の戦国武将にも味噌作りは大事な経済政策の1つとして見られるようになった。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
江戸時代
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各地の風土・気候を反映し、材料比率を変えたり熟成方法などが異なる多様な味噌が製造された。「江戸甘味噌」も参照 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
明治時代
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明治時代の一般的な味噌の醸造期間は1-3年程度であった。明治時代の国語辞典である『言海』は味噌の分類として以下の3種をあげる。その記述では、当時の赤味噌と白味噌は材料の豆や麹が異なったという。
白味噌 - 豆の皮を取り、白麹で作る。色が白く甘い。
赤味噌 - 白大豆で作る。色が赤い。
玉味噌 - 豆を臼で砕かず包丁で刻み、藁に包んで熟成させる。下等品だったという。
蒸すか茹でるかした大豆を潰して団子にし、藁で包んで味噌玉として軒下などに吊るし、枯草菌や納豆菌やカビが生えるなどして熟成したものを塩水と合わせて仕込む玉味噌は、現代でも地方各地に残っている。