後漢にはいると杜子春が『周礼』を伝えたといい[8]、賈徽や鄭興も『周礼』に通じていた。賈徽の子の賈逵[9]、鄭興の子の鄭衆、馬融らが注釈を書いた[10]。『周礼』は古文学派にとって重要な経典であり、賈逵の門人だった許慎も『周礼』を修めている。鄭玄は杜子春・鄭興・鄭衆らの説を総合し、さらに『周礼』の説を基本に『儀礼』『礼記』にも注釈を施した。魏の王粛や東晋の干宝にも注があったというが[11]、現在は鄭玄の注以外は滅びている。
清末の孫詒譲は、清朝考証学の成果をまとめて『周礼正義』を著した[1]。 官職を天官・地官・春官・夏官・秋官・冬官の六官(六卿)に分け、それぞれに60の官職が属するため[12]、官職の合計は360になるはずであるが、実際には各官にはそれ以上の官職が属している(天官63、地官78[13]、春官69[14]、夏官70、秋官66)。それぞれの官について一篇をなし、本来は全6篇からなるが、冬官篇は亡佚し、代わりに『考工記』で補われている。しかし『考工記』は明かにほかの篇とは内容が異なり、官職の数も半分の30しかない。 地官の司禄、夏官の軍司馬・輿司馬・行司馬・掌疆・司甲、秋官の掌察・掌貨賄・都則・都士・家士、考工記の段氏・韋氏・裘氏・筐人・?人・雕人の合計17官は題のみで中身がない。また夏官の小司馬は断章しか残っていない。 天官・小宰によると各官は以下のような職能を持っている: 実際には地官には地方行政や農業関係の職が多く属しており、六部の分類に近い。 この書物は、新の王莽が前漢から簒奪する際に道義的な後ろ盾としており、王莽の側近である劉?により捏造されたのではないかとする見解もあり昔から議論を呼んでいる(例えば南宋・洪邁『容斎続筆』巻16「周礼非周公書」、清末・康有為『新学偽経考』「漢書劉?王莽伝弁偽第六」)。現在では周礼の文章と、同時代のと暦法などの比較に基づいて、戦国時代末期に「周礼」が成立したのではないかとされる。また周礼の「周」とは西周ではなく、戦国時代の周国を意味していると考えられる[15][16][17]。 その後も、大きな政治的改革・改変を行う際に『周礼』を根拠にされた。とくに有名なのは西魏の時代に蘇綽・盧弁によって行われた官制改革で、『周礼』をもとにした六官の制を作り、これを府兵制と組み合わせた軍国制を作り上げた。西魏の官制は北周に受けつがれ、国家の強化に成功した[18]。隋は六官の制を廃止した。 北宋の王安石の新法もこの書物を利用している。 上記のように『考工記』は本来『周礼』とは無関係な書物であったと考えられる。『考工記』は現存する中国最古の工業技術書であって、さまざまな器物(中国の青銅器など)の寸法を細かく述べている。 清以来多くの研究がある。戴震は『考工記図』を作っている[19][20]。江永によると、『考工記』は東周以後の斉の人によって書かれた[21]。
内容
天官
治(国政)を所管長官は冢宰(ちょうさい)
地官
教(教育)を所管長官は司徒
春官
礼(礼法・祭典)を所管長官は宗伯
夏官
兵(軍政)を所管長官は司馬
秋官
刑(訴訟・刑罰)を所管長官は司寇
冬官
事(土木工作)を所管長官は司空
影響
考工記「zh:考工記」も参照
脚注^ a b 高橋忠彦・小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)『周礼
^ 宇野精一「中国古典学の展開
^ 『漢書』景十三王伝「献王所得書、皆古文先秦旧書。周官・尚書・礼・礼記・孟子・老子之属、皆経伝説記、七十子之徒所論。」
^ 荀悦『漢紀』成帝紀「?以『周官』十六篇為『周礼』。王莽時、?奏、以為礼経、置博士。」
^ 『経典釈文』序録「王莽時、劉?為国師、始建立周官経、以為周礼。」
^ 賈公彦『周礼注疏』序周礼廃興「是以馬融伝云(中略)然亡其冬官一篇、以『考工記』足之。」
^ 『隋書』経籍志一「而漢時有李氏得『周官』。『周官』蓋周公所制官政之法。上於河間献王、独闕冬官一篇。献王購以千金不得、遂取『考工記』、以補其処、合成六篇、奏之。」
^ 賈公彦『周礼注疏』序周礼廃興「是以馬融伝云(中略)奈遭天下倉卒、兵革並起、疾疫喪荒、弟子死喪。徒有里人河南?氏杜子春、尚在永平之初、年且九十、家于南山、能通其読、頗識其説。鄭衆・賈逵往受業焉。」
^ 『後漢書』鄭范陳賈張伝・賈逵「(章帝)復令撰斉・魯・韓詩与毛氏異同、并作『周官』解故。」
^ 『後漢書』儒林列伝下「中興、鄭衆伝周官経。後馬融作周官伝、授鄭玄。玄作周官注。」
^ 『経典釈文』序録