呉軍港空襲(くれぐんこうくうしゅう)は、太平洋戦争中、1945年の3月19日、7月24日、7月25日、7月28日、7月29日など複数回に渡って行われたアメリカ海軍を中心とした連合国軍空母機動部隊航空隊、及び、沖縄伊江島のアメリカ陸軍航空軍による呉軍港および瀬戸内海西部への空襲作戦。なお、この空襲とは別に、1945年5月5日に隣接地域にある広工廠空襲、6月22日に軍港内の呉工廠造兵部空襲、呉市街地が7月1日深夜から2日未明にかけて戦略爆撃(呉市街空襲)を受けている。 3月19日はアメリカ海軍のマーク・ミッチャー提督の第58任務部隊約350機、7月両日はウィリアム・ハルゼー提督率いる第38任務部隊約950機による空襲。日本側は高角砲や艦艇の対空射撃により激しく抵抗を行ったがほぼ全ての艦が着底、航行不能などの被害を受けた。 3月19日の第58任務部隊に対しては松山基地の第三四三海軍航空隊が呉を攻撃中のアメリカ海軍艦載機を迎撃し58機(アメリカ海軍側の記録では14機)を撃墜した。更に、銀河1機(艦上爆撃機・彗星三三型という資料もある)が高知県沖に接近していたアメリカ海軍空母「フランクリン」を攻撃し二発の徹甲爆弾が飛行甲板を貫通し格納庫で炸裂し弾薬、火薬に誘爆、甲板上で出撃準備をしていた多数の艦載機へ次々と誘爆した。大損傷を受けた「フランクリン」は懸命の応急処置により辛うじて沈没だけは免れたが、甚大な被害状況のため米本土に帰還し、終戦まで戦線を離脱した。空母「ワスプ」も損傷でしばらく戦線を離脱した。(九州沖航空戦) 7月24日の空襲では第三四三海軍航空隊が再び迎撃に向かい16機を撃墜。7月28日の空襲では22機を撃墜した。 一連の戦いで日本の乗組員約780人が戦死、約2000人が戦傷した。上記のように連合国軍にも損失を与えたものの、工廠施設が破壊され、戦略爆撃の一環として瀬戸内海の要所にB-29から機雷を投下されたことから、呉軍港は母港としての機能を完全に失った。
概要