吹田信号場**
吹田信号場(すいたしんごうじょう)は、大阪府吹田市芝田町にあった、西日本旅客鉄道(JR西日本)東海道本線の信号場である。
東海道本線の貨物線上に位置し、営業キロ上では千里丘駅と岸辺駅の間に所在していた。2013年(平成25年)に吹田貨物ターミナル駅の開業に伴い同駅の構内の扱いとなった。
当記事では、前身の吹田操車場についてもあわせて記述する。 かつての吹田操車場は日本三大操車場のひとつであり[1]、東洋一の規模を有する操車場とされていたが、1984年2月のヤード集結式輸送の終結により信号場に格下げされた。 位置的には旅客線上の岸辺駅の北側に広がっていたが、岸辺駅とは同一構内として扱われなかった(そもそも岸辺駅は旅客線のみの停留所である。千里丘駅も同様)。 跡地については国鉄改革法に基づき旧国鉄が梅田貨物駅を廃止しその機能を当地へ移転することを企図したが、用地の利用については自治体(大阪府・吹田市・摂津市)および鉄道関連の諸団体(日本鉄道建設公団・日本貨物鉄道(株))により協議の結果、梅田貨物駅の機能については当地を含め分散移転することで合意が図られた。 また、貨物駅用地以外については両市による構想が示されたのち、上記各団体および(独)都市再生機構も交えて合意書が締結され、都市開発が進められている[2](※ 吹田貨物ターミナル駅#建設の経緯も参照のこと)。 このうち吹田市域の土地開発に供される用地は「北大阪健康医療都市」(愛称「健都」)を標榜し、当地へ移転が完了した国立循環器病研究センターや市立吹田市民病院のほか、医療関連の研究機関・企業等の誘致に努め、複合医療産業拠点(医療クラスター)の形成を志向している[3] ほか、図書館を核とする複合公共施設「健都ライブラリー」には新幹線0系電車の最終営業運転で使用された車両1輌 (22-7007) が展示される予定である[4]。
概要
歴史
1919年(大正8年)2月:吹田操車場の建設工事に着手[5]。
1923年(大正12年)7月1日:国有鉄道の吹田操車場を開設[5]。5月に第1期工事が完成、6月1日から試験を行っていた[5]。
1928年(昭和3年)10月25日:客車操車場を併設[5]。
1933年(昭和8年)9月1日:客車操車場を廃止[5]。
1934年(昭和9年)9月9日:5年の工期を経て第2期拡張工事が完成[5]。日本一の操車場となる[5]。
1943年(昭和18年)9月25日:第3期拡張工事完成[5]。東洋一のハンプヤードといわれた[5]。
1947年(昭和22年)6月6日:昭和天皇が行幸(昭和天皇の戦後巡幸)[6]。
1952年(昭和27年)6月25日:吹田事件が発生する。
1960年(昭和35年)10月16日:上下ハンプ全線で自動仕分装置を使用開始[5]。
1963年(昭和38年):年間1日平均取り扱い車数が過去最高の6,675両を記録[5]。
1968年(昭和43年)6月2日:構内で貨物列車と入換用機関車による正面衝突事故が発生する。
1978年(昭和53年)10月2日:国鉄ダイヤ改正により、当時史上最大規模の貨物列車大幅削減が行われる。これ以降、取り扱い貨物の車両数も大幅に減少する。
1980年(昭和55年)10月1日:国鉄ダイヤ改正により、さらに貨物の取り扱い量が削減される。
1982年(昭和57年)11月15日:大阪貨物ターミナル駅への貨物支線が開通する。
1984年(昭和59年)2月1日:国鉄ダイヤ改正により操車場機能を廃止、信号場に降格し吹田信号場となる。
1987年(昭和62年)4月1日:国鉄分割民営化により、信号場の施設は西日本旅客鉄道(JR西日本)が、操車場跡地は日本国有鉄道清算事業団がそれぞれ承継する。この頃、梅田駅の施設移転計画が明らかになる。
2007年(平成19年)1月30日:吹田貨物ターミナル駅(仮称)の起工式を挙行する。
2012年(平成24年)10月8日:営業開始前の吹田貨物ターミナル駅を、信号場に準じた扱いで営業開始。北方貨物線(東海道本線支線)の起点ならびに城東貨物線(片町線支線)の終点を、それぞれ吹田駅から吹田貨物ターミナル駅に変更[7][8]。
2013年(平成25年)3月16日:吹田貨物ターミナル駅が正式開業し、営業開始[9]。梅田貨物線(東海道本線支線)の起点を吹田駅から吹田貨物ターミナル駅に変更[10]。