君主論
[Wikipedia|▼Menu]
地形についての知識がなければ、宿営地を予定し、部隊を行軍させ、戦闘陣を展開することは不可能である。自国の国情について知らない君主は、指揮官としての適性が欠落しているということになる。
君主の気質

マキャヴェッリは理想国家における倫理的な生活態度にこだわり、現実政治の実態を見落とすことが破滅をもたらすことを強く批判しており、万事にわたって善行を行いたがることの不利益を指摘する。

君主は自身を守るために善行ではない態度も取る必要がある。あらゆる君主はその気質が評価されるが、一人の君主があらゆる道徳的な評判を勝ち得ることは原理的に不可能なので、自分の国家に損失を招くような重大な悪評のみを退けることになる。しかしながら、自国の存続のために悪評が立つならばその払拭にこだわらなくてもよい。全般的に考察すると、美徳であっても破滅に通じることがあり、逆に悪徳であっても安全と繁栄がもたらされることが、しばしばあるからである。

このような気質の中で、気前が良い、あるいはけちだと思われることについて考察する。一般的に気前の良さを発揮することは害悪である。一部の人々のために大きな出費がかさむため、重税を課さざるを得なくなり、その他の大勢の領民に憎まれるだけでなく、そのような出費を止めようとすると逆にけちだという悪評が立つことになる。それよりも、多くの人々の財産を取り上げないことが重要である。つまり、けちと言われることについて君主は全く問題視すべきではなく、けちであることは支配者にとって許容されるべき悪徳の一つである。

また、君主の気質として残酷さと憐れみ深さについて考慮すると、憐れみ深い評判の方が好ましいことは自明である。しかしマキャヴェッリは注意を促しており、君主は臣民に忠誠を守らせるためには残酷であると評価されることを気にしてはならないと論じている。憐れみ深い政策によって結果的に無政府状態を許す君主よりも、残酷な手段によってでも安定的な統治を成功させることが重視されるべきである。

原則的には君主は信じすぎず、疑いすぎず、均衡した思慮と人間性を以って統治を行わなければならない。しかし愛される君主と恐れられる君主を比較するならば、「愛されるより恐れられるほうがはるかに安全である」と考えられる[6]。なぜなら人間とは利己的で偽善的なものであり、従順であっても利益がなくなれば反逆する。一方で、君主を恐れる人々にはそのようなことはない。

君主にとって信義も間違いなく重大であるが、実際には信義を気にせず、謀略によって大事業をなしとげた君主のほうが信義ある君主よりも優勢である場合が見受けられる。戦いは謀略によるものと武力によるものがあるが、この二つを君主は使い分けなければならない。もしも信義を守った結果、損害が出るならば、信義を守る必要は一切ない。重要なのは君主が立派な気質を備えているという事実ではなく、立派な気質を備えているという評価を持たせることなのである。
評価

『君主論』は、メディチ家に自ら売り込み、盛名を得ようとして書かれたとも言われ、ゆえに抽象的に君主は、どう在るべきかを説かず、ギリシアローマ時代からの歴史上の実例を数多く挙げながら、その成功・失敗理由を述べ、具体的な提言をするという、いわば実用書として書かれた。

共和制を論じた『リウィウス論』(別題『ローマ史論』岩波文庫)と対で構想され、マキャヴェッリ自身は、本来共和主義者だったが、イタリア戦争(1527年のローマ劫掠ほか)に至った混乱した時代に直面し、チェーザレ(1507年に戦死)のような強力な君主によるイタリア統一が肝要と考えた。

直接の成果は得られなかったが、晩年の1520年にジュリオ・デ・メディチ枢機卿(1523年に教皇クレメンス7世となる)から『フィレンツェ史』執筆の依頼を受けている(1525年に完成)
後年の評価・反応


本書で、政治自体を宗教道徳から分離した政治力学を提起した。だが一般的にマキャヴェッリの思想は冷酷・非道な政治を肯定するものと考えられ、後世マキャヴェリズムとみなされ、長年マキャヴェッリは、道義や倫理を無視した冷酷な権力論を説いたと考えられてきたが、客観的・近代的な政治学の始祖と考えられるようになった。

カトリック教会対抗改革の一環で禁書目録が作られた際は『君主論』も加えられ、焼き捨てられた(1559年頃)

16世紀フランスユグノー派のイノサン・ジャンティエは『反マキャヴェッリ論』(1576年)で「裏切りを好む悪徳の作者」といった具合にマキャヴェッリを非難した。

1572年のサン・バルテルミの虐殺の首謀者と目されたメディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスは『君主論』を読んでいた可能性もある(『君主論』は、彼女の父ウルビーノ公ロレンツォに献じられていた)。

18世紀プロイセンフリードリヒ2世は、ヴォルテールがマキャヴェッリを偉人の一人に数えていることについてに反論し、啓蒙主義君主として、マキャヴェッリとその著作『君主論』に対する反論として『マキャヴェリ駁論』(別題『反マキャヴェリ論』)を著した。ただし自身の実際の行動は、マリア・テレジアが即位すると、事前に同意していたにもかかわらず、反古にして戦争を仕掛け領土を奪うなど、真逆(君主論の記述通り)の行動をとっており、これらの行動をその当時の人々から非難されている。

18世紀後半に『君主論』が再評価されることになる。最初に『君主論』を再評価したのはルソーである。主著『社会契約論』で「国王たちは人民が力弱く貧困に苦しみ自分たちに反抗できないことを望んでいる。マキャヴェッリは王公に教えをたれるとみせかけて人民に偉大な教訓を与えた。君主論は共和主義者の教科書」と讃えた。モンテスキューヘーゲルも『君主論』を支持し、見方が変えられることとなった。

20世紀イタリアを代表するジャーナリストで歴史研究家のインドロ・モンタネッリは、著書『ルネサンスの歴史』[7]において、『君主論』が世界中の為政者に最も影響を与えた政治思想書であることを認めつつも、マキャヴェッリ自身は政治家・軍人として失敗だらけで何一つ実績を残せなかったことを挙げ、「挫折した理想主義者の偽悪と自己韜晦を文中から読みとれないようではダメだ」と述べている。

日本語訳

池田廉訳『君主論』中公文庫、1995年(改訳)、改版2002年、新版2018年。ISBN 978-4122065468

初訳版『世界の名著16 マキアヴェリ』 会田雄次責任編集(他に永井三明訳「ローマ史論」)、中央公論社、1966年

池田廉訳『君主論』中公クラシックス、2001年。ISBN 978-4121600028


河島英昭訳 『君主論』岩波文庫[8]、1998年。ISBN 978-4003400319。ワイド版2001年

佐々木毅[9] 『君主論』講談社学術文庫、2004年。ISBN 978-4061596894

森川辰文訳 『君主論』光文社古典新訳文庫、2017年。ISBN 978-4334753610

脚注^ 日本語訳では『君主論』と題されているが、作家塩野七生は、ルネサンスを題材としたBS-iのドキュメンタリー番組『イタリア 三つの都市の物語』で、内容は『第一人者論』と付けた方がふさわしいと述べている(より詳しく言うなら、市民の中から選ばれた第一人者論。なお著書に『わが友マキアヴェッリ』がある、中央公論社のち新潮文庫(全3巻))。ただし、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}本来のラテン語プリンケプスは「第一人者」を意味するが、西ヨーロッパの中世のプリンスは地域を独立的に支配する国王や大諸侯を意味する一般名詞。[要出典]であり、通常、君主と訳されている。
^ 以下の日本語訳は、講談社版の佐々木訳による。
^ 3章16節
^ 7章11節。
^ 12章第1節
^ 17章4節
^ 藤沢道郎訳(上・下、中央公論社、のち文庫)
^ 岩波文庫の旧訳版は黒田正利
^ 元版は『人類の知的遺産24 マキアヴェッリ』講談社、1978年

参考文献

佐々木毅 『マキアヴェッリと『君主論』』
講談社学術文庫、1994年。

漫画『君主論』(まんがで読破シリーズ)イースト・プレス、2008年。ISBN 978-4781600048

漫画『君主論』 中川真・作/十常アキ・画、講談社まんが学術文庫、2020年。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:29 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef