名護市
明治時代
1874年(明治7年)3月20日 - 名護郵便取扱所(現・名護郵便局)の開所。
1902年(明治35年)某月某日 - 国頭郡各間切島組合立農学校(現・沖縄県立北部農林高等学校の前身)の開校。
1908年(明治41年)4月1日 - 国頭郡が島嶼町村制を施行し、名護・羽地・久志の3間切が、名護村・羽地村・久志村になる。
大正時代
1920年(大正9年)某月某日 - 国頭郡各村組合立実科高等女学校(現・沖縄県立名護高等学校の前身)の創立。
1923年(大正12年)4月1日 - 久志村の北部地域が東村として分立する。
1924年(大正13年)2月1日 - 名護村が町制を施行し、名護町が発足する。
昭和時代
1931年(昭和6年)3月 - 羽地村嵐山にて嵐山事件が起こる。
1938年(昭和13年)11月10日 - 沖縄県立国頭愛楽園(現・国立療養所沖縄愛楽園の前身)の開園。
1945年(昭和20年)4月の名護町
1946年(昭和21年)2月某日 - 米軍が一般住民向けの傷病者医療施設(現・沖縄県立北部病院の前身)を開設。
1952年(昭和27年)
4月1日 - 米軍が開設した一般住民向け傷病者医療施設(現・沖縄県立北部病院の前身)が、「琉球政府立名護病院」へ改称。
5月20日 - 名護町から北西部地域(屋部・安和・山入端・宇茂佐)が屋部村として分立する。羽地村から屋我地島地域(屋我・我部・饒平名・済井出)が屋我地村として分立する。
1953年(昭和28年)3月某日 - 屋我地大橋(初代)の供用開始/羽地村奥武島と屋我地村(屋我地島)とを結ぶ橋として。
1956年(昭和31年)
10月19日 - ひんぷんガジュマルが、沖縄県の天然記念物に指定される。
某月某日 - 辺野古地区にて、米軍が辺野古弾薬庫と辺野古海軍弾薬庫(共に現在の辺野古弾薬庫の前身)を使用開始。
1957年(昭和32年)5月18日 - 名護町にて、沖縄ビール株式会社(現・オリオンビール株式会社)の設立・創業。
1958年(昭和33年)
某月某日 - 大浦崎収容所跡にキャンプ・シュワブ(在日米軍基地)の建設が始まる/ほぼ同時期に隣接するキャンプ・ハンセンの工事も開始された[5]。
某月某日 - 名護町港1丁目にて、名護バスターミナルの供用開始/琉球バス(現・琉球バス交通)と沖縄バスが別々に設置していたバスターミナルを統合したうえで。
1960年(昭和35年)5月24日 - チリ地震による津波で、羽地村の真喜屋小学校と屋我地大橋が大きな被害を受ける。屋我地大橋(初代)はこのとき流失した。
1963年(昭和38年)某月某日 - 屋我地大橋(2代目)の供用開始。
1969年(昭和44年)某月某日 - 琉球政府立名護高等学校(現・名護高校)の機械科・電気科が、琉球政府立北部工業高等学校(現・沖縄県立北部工業高等学校)として分離独立して開校。
1970年(昭和45年)8月1日 - 名護町・羽地村・久志村・屋部村・屋我地村の5町村が合体(新設合併)し、沖縄県下9番目の市として名護市が発足する。
1972年(昭和47年)
5月15日 - 沖縄の本土復帰に伴い、辺野古の施設・区域が米軍に提供され、辺野古弾薬庫と辺野古海軍弾薬庫は統合されて辺野古弾薬庫となる。
5月15日 - 沖縄の本土復帰に伴い、琉球政府立名護病院(現・沖縄県立北部病院の前身)が「沖縄県立名護病院」へ改称。
8月8日 - 市章と市旗の制定。
某月某日 - ヘリオス酒造株式会社が、本社と工場を那覇市から名護市許田(現在地)へ移転。
1973年(昭和48年)8月1日 - 「名護市民の歌」を制定。
1975年(昭和50年)5月20日 - 沖縄自動車道の許田IC - 石川IC間が開通/このほか、本部町で開催される沖縄国際海洋博覧会向けの輸送確保のため、会場につながる主要道路が大幅に改良された。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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